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VFXを使ったテロのシーンや、〝亜人〟の分身的な黒い粒子の物体同士が戦うくだりなど、おおっ、と思う場面がいくつもある。そもそも〝亜人〟なる新人類が出現したという設定自体、何やら暗示的。不死身のヒーローということでは、先行した「無限の住人」の木村拓哉を連想するが、ぶった斬りオンリーだったあの主人公に比べ、こちらは政治や文明批判も抜かりなく、役者を生かしたアクションも観応えある。終盤で「シン・ゴジラ」を使っていたのはニヤリ。続篇もありかも。
冒頭にチェ・ゲバラの静かで力強いことばが字幕で映し出される。そしてこの青春映画も静かで力強い。やがて自分の未来をゲバラに託すことになる日系医学生のまっすぐな若さ。そういえばメッセージや衝突もホンのチラッとある程度、それでも主人公の思いは伝わってきて、あえて言えば達成感もある。阪本監督は「団地」でも、周囲の雑音をよそに宇宙人と静かに交流する夫婦の日常を描いていたが、主人公の感受性を軸にした今回も、徒に慌てず騒がず、それが映画の風格になっている。
ちょっと「ナラタージュ」の別バージョンのような。誰かに甘えられつつ、こっちにも甘えがあって、他人同士なのに主人公の男女、親たちの因果で兄妹以上、恋人未満というややこしい関係に。ただ、実家で一人暮らしをしているヒロインを含め、どの人物にも共通する浮遊感が、映画自体を浮遊させてしまっているようで、いまいち捉えどころがない。人生に本気になれない人たちの押したり引いたり。ローカル色のあるロケ地も人物たちを更に浮遊させ、ゴメン、観終わったらそれっきり。
「私、先生の力になりたいんです!」とは、教え子・泉の台詞。ふつうは、先生が〝キミの力になるよ〟と教え子に言うところだが、教え子側に先生への強い恋情があると立場が逆転、しかもこの先生、困ったことにズルいほど優柔不断で、互いに相手を振り回しつつ振り回され。ロケ地・富山のどこか湿気を含んだ空気が2人の関係を密室化。行定監督、その辺りの演出も巧み。泉の回想形式で進行する恋の顚末が、感傷とも悔恨とも異なるのもユニーク。使い捨てのような坂口健太郎がチト哀れ。
原作は漫画誌で見かけたぐらい、薄い基本設定知識だけでこの映画を観て、即座に原作を最新刊まで読んだ。面白いことを考える! 漫画って進歩してる。ヴァン・ヴォークトによるSFの古典「非Aの世界」と「ジョジョの奇妙な冒険」の〝スタンド〟がインスパイア源だろうが、どうなるのこれ、と思わせ続ける勢いがある。私は映画版「ジョジョ」もまあ観れたが、それと比較して原作忠実度の低い本作のほうが楽しかった。佐藤、綾野の肉体、アクションが翻案を成立させたのだ。
ゲバラの訪日には工業化状況の視察などいかにも普通な目的があったのだろうが、彼がいまだ革命家であることを感じさせるのは広島訪問と原爆資料館見学、原爆慰霊碑への献花だ。これを取り上げ、なぜ日本人はアメリカに対して怒らないのか、という、ゲバラの問いと、彼の思い描く戦線に日本人も誘われていたことを描き、ボリビアの日系ゲリラの存在を伝え、それを現在の対米追従への疑義にまでつなげようかという本作はソダーバーグの生真面目さを軽く凌駕する見甲斐ある映画だ。
そういう場面があるなら、乳首を出して性交場面を演じるかそれに匹敵するものを表出するかをしない女優をいい女優だと思えないが、その点本作の初音映莉子はいい女優。レジ打ってよし自転車乗ってよし走ってよしの生活感ある美人。良し。彼女に対する、血のつながった母親以上の何者かを演じた草刈民代も、始終ぼやーんとしてるだけに見えてすごい存在感。彼女の歩く姿の引きの画は洋上を行く帆船の如く。女性主導で提出された血縁に拠らない家族の結びかたに感銘を受けた。
基本穏やかふうのいい娘キャラでそういう佇まいなので、そこにつけいるもしくは惹きつけられる男たちがしばしばごにょごにょと彼女に言い寄るが、そういうときに有村架純は西洋絵画に描かれる、悪魔からの誘惑の囁きを受けた修道士のように、半眼の伏せ目で、放心したような、完璧な判断中止の表情をとるが、実際これこそが悪魔に抗するのに最適な態度だ。これが結構得意のムーヴとなっている有村嬢はもはや若い女の子のおつかれな恋愛を聖なる戦いにまで高めたと言えるだろう。
この物語は、マイノリティの権利や主張・立場を守るために暴力を行使することをよしとしない。リセットすることで人生をやり直せるという設定はテレビゲームのようだが、同時にそれはマイノリティであることから逃れられない無間地獄のようでもある。「登場人物の背景が描かれていない」という揶揄も上等、本作では無駄を削ぎ落とすことで物語が鋭敏に展開してゆく。鑑賞後は数々の疑問も過るのだが、アクション映画はこのくらい簡潔で良いのではないかと思わせるに至るのであった。
異国の地キューバで医学の道を目指すフレディ前村と、映画製作を遂行する監督・主演男優の姿が否応無く重なる本作。冒頭、ゲバラの〈目〉を通して日本を考えさせる場面。ゲバラの〈目〉はバックミラーなどに何度も映し出され、その度に彼の想う〝何か〟を考えさせる効果を生んでいる。同様に、革命の仲間たちの〈目〉を通して見たものを、彼らの視点=目の高さで描いていることも窺える。例えばそれは、座る、寝転ぶ、という動作においてカメラが目の高さに移動することが裏付ける。
地方の田園風景や日本家屋には〈抜け〉がある。だだっ広く、何もないことで構図的な奥行きが生まれ、映像からは〝誰もいない〟感じが引き出されている。この〈抜け〉のよい構図は度々登場し、土地や家屋、そして人も〝空っぽ〟であることを導いているのである。本作もまた昨今の潮流である〝血縁関係に依らない家族的関係〟を疑似家族的に描いているが、人があえて不幸である側に魅せられてしまう所以も考察してみせている。野良猫の如き浮遊を感じさせる草刈民代の役作りが出色。
この映画では、有村架純のうしろ姿が何度も描かれている。彼女の表情が見えないため、おのずと我々は彼女の表情を想像する。その〈不確かさ〉が、ふたりの男性の間で揺れ動く彼女の〈不確かさ〉と重なってゆくのである。ラスト、電車内で彼女が訣別をひとり悟る場面。カメラは有村架純の顔をとらえ、〝表情の変化〟という決定的瞬間を撮影する。その表情が映えるのは、それまで〝感情の変化〟という決定的瞬間をあえて撮影してこなかった演出の賜物であることは言うまでもない。