パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
シスターフッドと女性たちの連帯。1985年版のリメイクだが驚くほど昨今の時流に乗っている。この40年間は一体何だったのか。ヒロインの義理の娘ソフィアが男性陣に強烈な皮肉を浴びせるシーンで、鑑賞時に男性の笑い声が聞こえたが、出所後である彼女がどんな思いで自分を取り戻そうとしているかを考えたらとても笑えなかった。その痛みがわかることをよかったと思える日がいつか来ればいい。ミュージシャンのH.E.R.がこんな顔だったっけ?と思うほどのあどけなさで新鮮。
「ヘレディタリー/継承」から連綿と受け継がれる母性神話と生殖への徹底した懐疑。それこそがアリ・アスターの哲学であり、本作はその結実の一つを提示する。主人公ボーが直面するカオスは、映像から得られる情報以外には一切の説明を欠いており、これがドッキリだとすれば観る者はネタバラシをされないまま不安と焦燥を延々抱え続けることになる。だが理性を凌駕する圧倒的なイメージの力によって、家族というものの本質に逆説からたどり着いた結末が悲劇であるとは思わない。
冒頭の裏切りとスタートダッシュに身を乗り出したもののそれがほぼピーク。登場人物の限られたワンシチュエーションものは、脚本のアイディアに俳優と演出の力量も最大限に問われるが、いずれも不足が顕著。セリフを聞いていれば、コロナ禍における対策をはじめ社会への抗議が詰め込まれているのは理解するが、無線の声が届ける一方的な主張ではヤフコメの域を出ない。あるいはそれこそ顔なき世論のメタファーかと仮定しても、だとしたらその後の展開は決定的に間違っている。
「ぐるりのこと。」の夫婦コンビふたたび。イギリス出身の監督が日本的な家族関係や精神性を再現する試みかと思いきや、物語や登場人物像そのものが監督自身を形成した実体験に深く基づいており、自分の世界観を追求することで必然的に日本的な描写も強化される。その意味で日本映画といっても遜色ない完成度には達している。同時に、リリー・フランキーが体現するある種の日本的な男性像は、当然のごとく女性を美化しすぎているが、それを破壊する木村多江の変貌が見事だった。
太った黒人女性たちの、その太りかたの美しさ。舞台版では寄りで見れない肌の美しさ、そして力強い歌声とリズム。僕にはミュージカルを味わう感性がないのだが、すばらしかった。スピルバーグ×ウーピーのストレートプレイ版は悲惨で暗かった。おなじ重い物語を、軽くではなく明るく伝えられるのが歌だ。黒人女性に生まれてしまった人生は過酷だという話が、すべての女は支配してくる男(暴力に限らず、経済、愛情搾取など)に対してもっと素直に怒っていいんだぜという話に再生した。
星10個。いまどき、こんな精神分析的な喜劇映画を作っていいのか。いいのです。母を愛しすぎてたり、親からひどい目にあって今でも親を憎んでいたり、親のせいで人を愛することも適切な距離をとることもできなくなって人生が滞ってる、すべての人のための映画だから。「へレディタリー/継承」の答え合わせでもあり、「へレディタリー」より怖い。往年の筒井康隆ファンも必見。ラース・フォン・トリアーのファンも必見。日本のSNS上の冗談概念〈全裸中年男性〉をホアキンが演じてるのにも感動。
血まみれ地獄絵の一夜だと思ってたら(そうなのだが)社会派だった。しかも「エイリアン」だった。舞台は未来の宇宙じゃなく現在、だが我々の現在はあの時代からしたら恐怖の未来なのだ。宇宙の怪物じゃなく同国民と、会話してるのに話が通じない分断。マザー・エイリアンじゃなく主人公が、子を産むべきと追い込まれてる(妊婦がひどい目にあう話ではない)。冒頭でがっかりさせられた「エイリアン3」より、きっと続篇はないこっちのほうがいい。少女のジャージーの柄のことも考えさせられた。
奇妙な味わいの映画。その奇妙さが監督の持ち味か、英語で書かれたセリフを日本語に訳して日本人の俳優が演じるからなのか、日本人が演じる日本の家族を東京と英国の田舎でのロケで英国人が演出してるからなのかはわからないが、いやな奇妙さではない。万国共通〈愛する相手が本当に欲しいものを言葉にしてるのに、そのままの意味で聴きとることができない男が勝手に感じてる孤独〉の問題。しかしこの問題はなんで万国共通なんだろうな。と万国の男性が自分をかえりみて頭をかかえる。
個人的にミュージカルは得手ではなく、サブスクから映画の歌曲を敢えて落とすことはない。そのため本作も歌が秀逸なのはわかるが、その間、物語の停滞を感じる人間なので、同類の方はしんどいと思う。また強烈なDVとモラハラが描かれ、黒人と信仰の結びつきの強さも前面に出される。妻をずっと侮辱し暴力を振るった男性を、妻が贖罪を認めてあっという間に赦すのは釈然としない。現代的なのはシスターフッドが重視され、肉体的な関係も仄めかされることで、全体に女同士のシーンは魅力的だ。
非常に難物だが、基本の型は「ヘレディタリー/継承」と同じで、家族が下の代に災難をもたらす物語である。アスターは本作をブラックジョークと言い、確かにそうではあるものの、母親が息子を心身ともに破壊する話を笑うのは難しい。世界は暴力に溢れ荒涼としており、劇団の映画内演劇にしか落ち着ける場所はない。確かに我々も内心、この世界を生きづらいと思っていても、アスターの家族観の極端さは死に至るので、さすがに戸惑いを覚える。ただ家族が災厄というのは、恐ろしいが真実ではある。
顔のわからぬ大量殺人鬼に襲われる物語で、相手は凄腕のスナイパー。とにかく強すぎて、主人公の製薬会社社員のアリスは、ガソリンスタンドから動けない。不倫が彼らを引き合わせた契機の一つで、犯人は共和党支持者で反ワクチンの、戦争にも行った男で妻に不倫をされたという特徴がある。そしてアリスはワクチンを扱う会社の社員で不倫中というのが、犯人を刺激した部分だ。ほぼ二人劇で間延びもするが、顔が見えないというのは、犯人を特定の人間に落とし込まないことになり、曖昧さが尾を引く。
この映画は“家族再生を描いた”と銘打たれているが、逆に家族間のぎくしゃくとした不仲が明瞭になる作品という印象だ。リリー・フランキーが妻を深く愛していることの表現として、彼の頑固で融通の利かない性格が前面に出される。妻の遺灰をイギリスへ撒きにいく旅も、用意周到な息子にたてついて、フランキーは路線図も読めぬ土地で猪突猛進していく。それが愛ゆえというのは独りよがりで、結局誰にとっても徒労となる。筆者の父も同類だったので、生前の振り回された疲労を思い出してしまった。