パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
ロバのEOが超かわいい。彼はサーカス団を追い出されてあちこち彷徨う。いつもはのんびりしているのに時々アナーキーになるのが面白い。急に動き出して棚をなぎ倒して走って行ったり、後ろ足で男の顔を蹴って気絶させたり。時々サーカスにいた時に可愛がってくれた女の人を思い出す。彼女は過剰なまでにEOを愛撫する。妙にセクシー。そのことを思い出して彼は鼻の穴を広げる。人間が襲ってきても逃げない。捕まってひどい目にあってもじっと耐える。隙を見てトコトコ逃げ出す。
子供時代に出会った二人。すぐに仲良くなる。ちょっとした行き違いで二人は会わなくなる。時間が飛んでアッという間に青年になった二人。出会ってもぎこちなく目線を交わすだけ。またまた時間が飛んで再び出会う。二人とも髭モジャでいいおっさんになっている。お互いの髭を褒めあったりして微笑ましい。二人は会わなかった時間がなかったかのように仲良くなる。その後もケンカしたり疎遠になったりしながら二人の関係は続く。二人の背後に流れる時間を見ていたんだと気づく。
父親の介護をする。父親は恋人の名前ばかり呼んで娘である自分のことなど眼中にない。新しい恋人は妻子持ち。うまくいきそうになるとやっぱり妻子のことは捨てられないと優柔不断。男と別れたりくっついたりを繰り返す。女の人の体がいい。大柄で手足が長い。子供を寝かせてすぐさま隣の部屋でセックスしようとする二人。大柄な体で男に覆いかぶさるように抱きつくセックスが良かった。介護施設の老人たちが本物すぎてビビった。母親がめちゃくちゃサバサバしていて笑った。
亀がひっくり返ってると言いたかっただけなのに買わされてしまう女の人。何事も流されてしまう性格。ため息ばかりついている彼女の不満げな顔がいい。いざ結婚するって時に初めて昔の秘密が障害になる。10年前の偽装結婚。なんとか相手と離婚しておかないと結婚できない。導入は見事。彼氏はダジャレばっか言ってる割と最低の男。無神経で母親の言いなり。飼ってた亀を義母が勝手に捨ててしまう。プツンと彼女の何かが切れてしまう。早く別れろ!と思わず応援したくなる。
スコリモフスキの映画はいつも驚きと興奮で満ち溢れている。どの作品が一番好きかと聞かれても選べなくて困ってしまうくらい、どの作品にも心惹かれてきた。ロバであるEOの瞳に映る世界を知るとても贅沢な映画体験は、冒頭から最後まで目が離せない。音、編集、セリフの一つ一つに唸りながら、自身の体がスクリーンになっていくかような没頭感を覚える。イザベル・ユペールの登場には思わず笑ってしまったが、冒頭から最後まで、センス抜群。これが映画だとしみじみ思った。
大切な人との大切な時間を本作は丁寧に綴っていく。ピエトロとブルーノをどこかアラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンドを彷彿とさせる対照的なふたりが演じる。まったくタイプの違うふたりが、少しだけ似てくる瞬間がある。長い時間を、それは積み上げてきた時間だけでなく、積み上げられなかった空白の時間をも内包し、あるがままに受け止める。この映画が持つ豊かさはとても壮大で深く、過去の名作に並んでも引けをとることのない力強さを持っているだろう。
レア・セドゥの表情が、本当にため息がでるほど素晴らしい。不安に駆られ、孤独に覆われ、嫉妬を恐れ、そして幸せをかみしめる。セリフがなくてもその表情から多くのことが伝わってくる。本作にちりばめられたあたたかな光はどんなときの彼女も拒絶することなく優しく包む。ミア・ハンセン=ラヴの才能を満喫することができる。映画に流れる時間は人生の一瞬でしかないかもしれないが、その一瞬は確かに存在する。そんな忘れがたい瞬間について考えたくなる贅沢な時間だった。
ギョッとするようなセンスのない無駄に派手なプロポーズをドヤ顔でする男。他人事のような顔をしてプロポーズを聞いている女。このシーンに本作の要素がすべて詰め込まれている。ラブロマンスかと思いきや愛が不在。同棲中の彼氏に何一つ魅力を感じられず、苛立ちさえ募る。そこがリアルといえばリアルなのだが。「結婚から考える本当の自由」はもはや語り尽くされた感じがするし、むしろ偽装結婚の部分にもっと焦点を当てていたら……、とついつい考えてしまうのだった。
「バルタザールどこへ行く」(66)は唯一「泣いた映画」であって、それは「好きな映画」とは違うと監督はいう。実際、この傑作を前にすると、ブレッソンはいかにも説教臭く見えてしまう。ブレッソンが「意味」と戯れたとすると、スコリモフスキが目指すのは愚鈍なまでの「無意味」である。脚本は単なる出来事の連鎖であり、そこにあるのはピタゴラ装置のごとき自動運動だ。ところで、「エッセンシャル・キリング」(10)のV・ギャロはロバだったのかといまさら気付く。
ピエトロのナレーションで語られていく点に居心地の悪さを感じる。彼が語り手である以上、彼の自意識の物語にしかならないからだ。ピエトロとブルーノは対照的な存在なのではなく、その関係は一方的なものだ。都会の金持ちの子であるピエトロは家を出て、自分探しに興じる。そんな彼の輪郭を際立たせるために、山で貧困に喘ぎ先祖代々の家業を受け継ぐブルーノという存在が作られているだけの話である。ピエトロが十分に成熟すれば、ブルーノはもう用無しだといわんばかりの結末。
終盤で読まれる日記は監督の実の父のものだという。「EDEN/エデン」(14)で兄の肖像を、「未来よ、こんにちは」(16)で母の肖像を描いてきたMHLは、今回は父の肖像に挑戦する。だが、それは娘を通して描かれる。娘の職業が「通訳/翻訳家」であるのはそれゆえであり、私たちは娘の翻訳を通じてしか父を知ることはできない。「グッバイ・ファーストラブ」(11)で映画作家が建築家と見立てられたように、通訳もまた映画作家の謂いだろう。人と人の間に立つ仲介者。
ロマンチック・コメディの定式を書き換えるのは、やはり意義ある試みだと思う。ジャンルが前提としていた価値体系の書き換えに繋がるからである。というわけで、テンポのよさが命と思われがちのコメディを亀の歩みで進めてみせるのも野心のうちと理解した(亀は劇中で印象的な役割を果たす)。さて、「偶然と想像」(21)がさっそく引用されてると思いきや、本作の製作は19年。このエレベーター越しのすれ違いはそもそもどこから来たのか。まさかデ・パルマではないと思いつつ。