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信頼できるキャストが揃い踏みしていることもあって安心してストーリーに身を任せることはできるが、宮沢賢治に思い入れがないせいもあるのだろう、最後まで本作の勘所をうまく摑めなかった。善良な人間しか出てこない本作にあって、とりわけ主人公政次郎が体現する子供に異常なまでに寛容な父親像は、20世紀初頭の東北においてはユニークであったのかもしれないが、現代ではどこにでもいる父親としか思えず。それを先駆的と捉えるか凡庸と捉えるかで評価が分かれるのかもしれない。
大谷健太郎監督によるショービジネスものといえば「NANA」1作目(2作目はほとんど憶えてない)を思い出すが、あれから20年弱でこの国のポップカルチャーが人々に与える夢も随分小さくなったものだな、というのが正直な印象。日本特有のファンダム、いわゆる「推し」文化の健全な側面だけに光を当てるという欺瞞は、コミックやアニメなら見過ごせるとしても、実写になると途端に白々しいものとなる。劇中のグループアイドルが歌う楽曲群のクオリティがそれなりに高いのが救いだ。
パラクライミングという競技では、何よりも仲間の「声」が命綱となる。といったような、これまで想像もしたことがなかった知見を得ることができる。クライマックスのフィッシャー・タワーズ登頂シーンにも素直に感嘆させられる。しかし、本来なら編集で落とすべき本筋とは関係のない無駄なくだりの多さ、劇中クレジットのフォントの無造作さなど、アマチュア的な細部が足を引っ張っている。せっかくの風景の壮大さが、おそらくは技術的理由によって表現しきれていないのも気になった。
球磨川の景観とその土地で生活を営む人々。役者の自然な所作。丁寧で的確な編集。映画としての美点も少なくない作品なのだが、主人公の境遇の重さが、完全なフィクションであるとしたら自分にはトゥマッチな設定に思え、作家のパーソナルなものであるとしたらそれこそフィクションとして浄化されていることに戸惑う。登場人物が突然饒舌になって、名言風の台詞を喋り出す展開が繰り返されるのにも違和感が。それと、このタイトルでどれだけ観客の関心を引くことができるのか疑問だ。
丸坊主がよく似合う賢治役の菅田将輝。丸メガネにチョビ髭の父親・政次郎役は役所広司。門井慶喜の原作では、賢治は結局、自分は父親の手のひらの中で青臭く遊んでいるのだ、と自覚するようになるのだが、本作では、いまで言う自分探しをしているような賢治と、そんな賢治に大甘な父親という構図になっていて、いささかありきたりな父と息子像に。とはいえ、生涯病弱で独身だった賢治が遺した作品の一節を、政次郎が口にするくだりは感動的で、役所広司の親バカぶり、見応えある。
はっきり言って大人はお呼びじゃない映画だが、誰かが傷ついたり死んだりするわけでもなく、達成感もそれなりに。なによりも、私の人生の一分一秒に舞菜が必要なんです、と言いきる主人公の屈託のなさ。岡山の地下アイドルグループの舞菜を本気で応援、いや“推し活”する熱量半端ない娘。そんな主人公とそれぞれに癖のある推し活仲間のエピソードを賑やかに描いていくのだが、歌って踊るアイドル役の若手女優たちより、主人公役の松村沙友理のほうがイキイキしているのがご愛敬。
命懸けでこのドキュメンタリーを完成させたに違いない方々の異論反論を承知で書けば、盲目の登山家・小林幸一郎と、小林の目となる視覚ガイド・鈴木直也の互いの立ち位置は、アイドルと推しの関係に近いものがあると思う。さらなる絶景、さらなる高みを目指しての一蓮托生的な関係と冒険。むろん、どちらもプロで、誇りうる実績を共有しているのだが、危険な岩山に挑む小林への数ミリ単位のサポートは、まさに推し(押し?)ならではで、その信頼感も素晴らしい。
寡黙なシーンをつなげて章立てしたような映像が、ここでは妙に思わせぶりに感じられ、それが歯痒い。喪失感を抱えて故郷の熊本に帰省した女性の数日間。生まれてすぐの赤子を亡くしたという設定で、こう言ってはなんだが、悲しい出来事には違いないが、どちらかというと題材的には描きやすい。当然、彼女は自分に沈んでいるが、幼馴染みの男二人と豪雨の爪痕の残る球磨川巡りをするうちに、いつしか足元が軽くなり。郷愁と感傷で微妙に変化する川の表情は面白いが全体に気取り過ぎ。
宮沢賢治がその作品の表面上の雰囲気のような、無害で大人しい人間だったというのはよくある誤解。作品への誤解でもある。彼は生涯不犯の相当な難物、メルヘン極道とでもいうべき男で、普通の生活者の感覚を持たなかったからこそ大きな真実に触れ得た、それを書き得たのだと思う。クライマックスの、ねじこんできた百姓水澤紳吾とのやりとりはヒヤヒヤする。救済でなく一場の芝居をやりきっただけ、と。エンディング曲が壊滅的に合ってない。クラムボンならばなんとかしたか。
ベン・アフレック「AIR」を観て思ったのは、すごく面白いんだけどあまりにもすべてが物質文明と商業主義の枠内での充実によって完結してないかということだったが、本作にもちょっとそれに近いものを感じた。また、いまや市場は水平に地理的に開拓されるのではなく個々の内面を垂直に掘削してつくられているのか、とも。しかしほとんどの人間がこの文明の形態からは逃れられないのだから、そこで金銭の費消と労働によって愛を証明するというのも当然の、正当な行動ではないか。
全盲のクライマー小林幸一郎氏と視覚ガイド鈴木直也氏の存在感とアクションで魅せる爽快なスポーツ冒険ドキュメンタリー。ヤバイ絶景を登っていく小林氏。だがその概観を本人が見ていないという事態。これは三宅唱「ケイコ 目を澄ませて」の音響、ダリオ・アルジェント「ダークグラス」での視覚と映像でも浮上した転倒的構造だが、本作はさらにクライミングを題材としたドキュメンタリーであることで触覚による知覚をも喚起させる。畠山地平による無意識に響き沁みる音楽も良い。
ひとつ不自然かもと思ったのは子の名前について。自分にも子がいていきおい他のお母さんらと交流を持つこともあるが、もう皆それぞれの子を名前で呼んで話す。誰それ? というのをおかまいなく、呼ぶことで存在させる。本作は重要な場面で一回だけ名を呟くことの逆算が過ぎて? 内田慈演じる母親がずっと息子、あの子と言う。そこは解せぬ。だが内田慈はすばらしい名演。玉置玲央が最後に出くわしたこどもと遊ぶところはトリュフォー「恋のエチュード」の末尾の感慨にも近い。