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ハーメルンの笛吹き男伝説を現代に移植したような、あるいは「ピクニック・アット・ハンギングロック」の系譜に連なるストーリー。ミア・ワシコウスカの硬質な佇まいが教師という立場の特殊性と潔癖な思想に説得力を与えている。思春期は世の中の複雑さや理不尽さに触れて極端な考え方に偏りやすい時期。男女共通の制服やセットデザインの洗練はウェス・アンダーソンの世界を彷彿とさせるが、それはつまり自らの美意識に反するものを徹底的に排除した排他的な空間であることを意味する。
牧歌的な風景に、生年月日を「無意味なこと」として知らずに生きてきた人々。近代化の裾がようやく訪れた村のさざ波を描くにしては、驚くほど緻密に計算された画面構成とストーリーテリング。アメリカの銃社会や資本主義経済の理屈がまったく別の価値観に取り込まれていく作劇も見事。単純な二元論で語れる問題ではないところを映画的なダイナミズムで乗り切り、クライマックスではラマ教の法要の儀式という花火を打ち上げる。口当たりのいい佳作の枠に収まらない上質のエンタテインメントだ。
敢えて不自然さを残した合成や静止画を使った描写など、デジタル以前の実験映画を思わせる表現は稚拙さや自己陶酔と紙一重だが、それを成立させたユペールの存在とジラール監督の絶妙なセンスが光る。日本の関西地方の街並みをとらえたレトロフューチャーな味わいも虚と実のあわいを生きるシドニの心象風景に似合っている。ユペールは同世代の俳優と比べても現役でラブの要素を含む作品への出演が多く、実年齢に沿って現在進行形の恋愛や性愛を演じられる稀有なキャリアと独自性が際立っている。
米軍完全撤退の期限が迫る中でカブール空港に押し寄せた人々。中には飛行機に乗り切れず機体から振り落とされる者もいた。当時数えきれないほど目にした動画。彼らの救出に遠隔で尽力したマフマルバフ監督らの心痛が、瞬時に的確な人選を決めなければならない冷静さの中で浮き彫りになる。ただし、救出リストの候補に入れる人はやはりある種の特権階級といえる。タリバン復権下で生命や人権を脅かされているのは芸術家だけではないし、芸術家至上主義のような結びにはやや疑問が残る。
恐ろしい映画。不食実践カルトは昔からあるが、これはまさに現在の、日本やアメリカの選挙戦、トランスジェンダーについての考えかたや、フェミニズムについての考えかた等々、自分の感情の傷を癒やすものだけを、いつのまにか暴力的に信じてしまった者だらけになった状況の隠喩だ。リベラルとネトウヨどっちがバカかという話ではない。ほとんどの人類は自分の身体と「えらそうでキモい親」が嫌いだし、さみしくて苦しい我々(そう、我々だ)は真理と真実で洗脳されて死ぬことを欲している。
アメリカ人や日本人、政治で分断が深まってるあらゆる国の国民もれなく全員が観るべき映画。高校の授業で全生徒に観せるべきとも思ったが、観せただけではダメで、観たあと少人数グループに分かれて感想を(議論にはならないよう)語りあうまでが大切。映画にでてきた勃起した男性器も非常に大切、濡れた女性器も同じくらい大切、というのが僕の感想。映画としての欠点は一点だけで、BGM入れすぎ。ラジオやテレビから流れてくる曲とクラブでかかってる曲、あとは祭礼の音楽だけで充分だった。
逆張りっぽいことを言うけど、この映画の美点は日本人から見て変な部分を直してないところだ。恋愛とは「相手からは変に見えてる自分」を受け入れることだからだ。ただ、せっかくだから食事を(日本人の日常食を)もっと見せてほしかった。幽霊はセックスより食事に嫉妬するだろう。あとバーのシーンで酔った伊原剛志が「あなたたちが創作したキリスト教的な一夫一婦制度や恋愛のありかたは、けっきょく我々には無理です」と言い出すかと期待したが、さすがにそういう映画ではなかった。
こうしている今も、どんどん人が無惨に殺されている現実。苦悩してるだけで何もできてないわけではない。人の命を助けることの役にたててはいる。かろうじて「絶望の」リストではない。だが助けることが間に合わなくて拷問をうけて生きたまま目をえぐられた人もいた。現地まで行くことはできない。家にいて、自分の平和な日常のなかでパソコンとスマホで助けるしかない。映画が終わっても「信仰」も虐殺も戦争も終わってない。分断の末、明日には我々が殺して殺されることになるだろう。
食べないことの行く末が死なのは自明で、それを教師と生徒たちが実践するのは、カルト教団の集団自殺と違わない。他の命を奪わず、雑多なものを身体に入れず、まるで透明な存在のようになりたい理想もわからなくはないが、でも好みの食と出会えなかっただけと言うカフカの『断食芸人』の突き放し方に比べると、まだ気取っている。吐瀉物を食べる不快な描写も、個人的にはまったく正視に耐えないが、やりきる心づもりは評価する。お洒落な色使いと装飾で映画を縁取る美学はある。
浅学で知らなかったのだが、ブータンは王朝制が独裁政治になることなく、比較的政策がうまくいっている中で、国王みずから立憲民主制に移行したらしい。鑑賞後に知って、それでこのような内容の映画なのかと理解した。王朝制で国民が不自由を感じていないのに、民主化が図られたため選挙制度に対しキョトンとしていたわけだ。他の国は人民が選挙制を勝ち取ろうと多くの血が流されてきたというのに、さすが人民の幸福度の高い国なだけはある。007が世界共通語なのは微笑ましい。
日本が生者と死者が共存しているようなのは、確かに海外からはそう見えるかもしれない。死者を招き入れるお盆の風習があり、それでお祭り騒ぎもしない。広島や神戸や福島の地名が登場するように、未曾有の災厄もありながら続いている土地。そういう直感的な雰囲気にあふれた映画だ。イザベル・ユペールがお洒落な装いで、京都をさまよっているだけで絵になるから、十分楽しく観られてしまう。家族を失う孤独、アバンチュールの癒やしもありつつ、ユペール映画というジャンルの一作。
人命を一人でも多く救うための活動が、どれだけ素晴らしく必死なものかはわかる。だからといって、室内でひたすら電話をかける様子だけを捉えた映像を、救済のためだからといって高く評価するわけにはいかない。映画的にはなんの面白みもないからだ。「人を救う作品に低評価を与えるのか」と言われたら困る。明らかにそこには線引きが必要であり、これは映画と分類するかすら難しい。助かる人選がたまたま電話のそばにいることで決定する、残酷な運命の記録映像とは呼べるだろう。