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空の上ですれ違う二台の赤いゴンドラ。交わる視線。交互に訪れる停留所で指し合うチェスの対戦。 二人の女性乗務員の交流がセリフなしで語られる、一目見ればそれとわかるスタイルは「ツバル TUVALU」などのファイト・ヘルマー監督のもの。更衣室での目撃カットから漂うそこはかとなく官能的な匂い。山あいに生きる人々の生活音が音楽を奏でるミラクル。シンプルでミニマムなコミュニケーションの限りない豊かさ。夜の闇に浮かぶライトアップされた車体が彩る密会は涙が出るほど美しい。
かつて男性のサポート役としてその功労が描かれてきた女性の活躍を表舞台のものにする時代の流れと、大統領の妻であったベルナデット・シラクの実話を上手く融合させたストーリーテリング。宿敵サルコジとの間での立ち回りやプライベートな家族問題まで過不足なく詰まっていると同時に、女性エンパワーメントのフォーマットに沿って口当たりよく記号化されているような側面も。その上でドヌーブの鷹揚なコメディセンスが光る。特にフランスらしいエスプリの効いたシニカルなセリフの返しは絶品。
地方の一政治家から国政を目指す男のなりふり構わぬ奮闘と復讐劇に、釜山国際映画祭のお膝元でもある海雲台エリアをめぐる利権ドラマが絡む。人々の思惑が入り乱れ、誰にとっても思うようにいかない選挙戦が終盤で見せる驚異的なねばり。韓国版「最後まで行く」で怪演を披露したチョ・ジヌンの終始胡散くさい立ち回りは、人は環境次第で善にも悪にも簡単に転ぶという現実をあまりにも人間らしく証明した残酷なサクセス・ストーリーでもある。剃髪で役に臨んだイ・ソンミンの異形っぷりも見もの。
2020年代に入って2本目となるモレッティの新作は彼自身が映画監督を演じる系譜の一本。ドゥミやフェリーニをはじめ往年の映画界へのオマージュは、時代の変化についていけない高齢者の言い訳のようでもあり、映画言語だけで物事を語ろうとするシネフィルの滑稽さが逆説的に批評性を獲得しているのが皮肉。ただ、プロデューサー役のマチュー・アマルリックと二人、かつて「親愛なる日記」で走らせたベスパから電動キックボードに乗り換え、夜のローマを滑走するカットはいつまでも見ていたい。
セリフがなくなるだけで我々観客はこんなに目を使うようになり、こんなに画面の情報量が増すものなのか。ちょっと衝撃だった。すべての脚本家と監督は(まあアニメだと商業的に難しいだろうが)台本をつくりながらセリフというものは本当に必要なのか、セリフがなかったらその物語は成立しないのか、一度は真剣に考えてみるべきなんじゃないか。セリフがないと恋愛というものが成立していく過程がゆっくりゆっくり感じられる。ただ寓話なだけに「悪役」は割をくってて可哀想だな、とは思った。
政治を語るために人間を出すんじゃなく、人間を語るために政治がでてくる。こういうふうにやってくれると政治も映画の題材として面白いんだよなあ。現実のベルナデットの写真や映像によるオープニング直後、まったく似せる気がないドヌーヴがぬけぬけとでてきて笑った。観た人の多くがしびれるだろうラストの個人的な一言を言わせるためだけの、一国の一時期の政治史。こんな映画、日本でも作れないもんかね。同世代の関係者みんな死んでからでいいので安倍夫婦の奇人ぶりを描くとかさ。
韓国でも、もちろん日本でも、いちおう民主主義だってことになってる国で政治を仕事にするというのは本当にこういうことなんだろう、人も本当に殺されるんだろう。映画を観るほうもそのくらいのことは思ってるし、応援したくなる魅力的な登場人物が(女性記者もふくめて)誰もいないので、「衝撃のラスト」に衝撃がない。もっとヤクザを悲しい造形にしておくとか、主人公が最初のうちは本物の正義の人であるとか、やりかたはあっただろうに。政治に呑気に絶望している場合ではないと思うのだが。
ナルシシズムが強い政治的な男性の映画関係者が主人公の、古い映画をいろいろ引用してるらしき(そんなことを言われたって古い映画ぜんぜん観てないからわからん)映画についての映画が苦手だ。映画という表現そのものを否定するオチにでもしないと、結局は主人公の人生を肯定して終わることになる。なぜそんな特権をもてるのか。巨匠モレッティ70歳でお元気なのは結構だが、たけし(も76歳か)の暴力映画のナルシシズムのほうがいい。死者と敗者の(だよね?)行進も、感動できなかった。
山の谷間を交差する二つのゴンドラ。それぞれに乗る二人の女性添乗員は、すれ違うとき互いに悪戯をして楽しむ。全体に他愛もないが、その様々な意匠の凝らし方が、可愛らしい企みで微笑ましい。彼女らの恋が距離を縮めるにつれて、地上も巻き込んだ祝祭となっていく。男性同士の恋愛だと、こんなに屈託のない作品にはならず現実の苦が滲む。幸福感だけに満ちた男性同士の愛の映画の不在と、男性監督にとって女性同士の恋愛は、結局ファンタジーであることの露呈を同時に感じる。
フランスのメジャー映画はときどき演出がダサい。日本の娯楽路線の寒い笑いの映画に近いものがあって、本作も登場人物の善悪の分かりやすさが短絡的すぎると感じる。映画の中に一貫性が足らず、自立を図ろうとするベルナデットが、夫に秘密で大胆な政治的行動を取りながらも、夫の脅しでひるんでしまうなど、どっちつかずの演出が目に付く。誰の意向なのか、現実のベルナデットの洗練された服装に比べて、ドヌーヴが徹底してゴテゴテした趣味の悪い衣裳をまとうのも不思議だ。
ポリティカルドラマ、または土地の再開発をめぐって動く大金を狙った出し抜き合いの物語。……でありつつ、核となるのは他の登場人物たちを削り落としていって、残った男二人の、知能と暴力的感覚を最大限に活かした決闘である。自らの陣営の重要な駒となる人物の、どれを泣く泣く潰して地盤を固め、相手の意表を突いて失脚させるかという頭脳戦だ。相手を蹴落とすはずの証拠も過信すると、思いがけないしっぺ返しが来る。地味だが最後まで予想がつかない良質なサスペンスだ。
撮影中の映画が資金難で暗礁に乗り上げた監督をモレッティ自身が演じる。イタリア共産党の話らしいが政治的意図は感じないし、プロデューサーの妻が担当している若手監督の現場に乱入し、撮影を止めてしまう狼藉に啞然とする。みずから老害という宣言か、本当に昨今の作品が観るに堪えないと思っているのか。チーヴァー原作の「泳ぐ人」を撮りたいという発言も、すでにバート・ランカスターの名作があるのに、それを超えられるつもりなのか、どういう心理か測りかねる。