一九四二年、南方航空隊基地。空襲下、軍慰問の踊子・朱実と、慰問係士官・若林中尉はジャングルの奥深い防空壕の中で結ばれた。--一九四八年、東京に引揚げて来た朱実は、小村流の家元・小村志乃に弟子入りした。やがて六年後--朱実は、志乃が歌舞伎俳優の中村十次郎と踊りたいという念願を利用することより、自分の飛躍を図った。修善寺温泉で十次郎に逢い、色仕掛けで彼を説きふせた。発表会の結果、志乃が老醜、古色蒼然と叩かれたの反し、朱実は新鮮溌溂と絶賛された。朱実は、志乃のパトロン猪倉を誘惑し、彼の後楯で菊陰流を創立した。舞踊研究所の落成披露に贈られた花輪の一つに眼を止めた朱実は、動揺した。若林の名があったのだ。安ホテルに彼をたずね、二人は抱擁にひたった。やがて、朱実と若林は結婚した。そして、封建的な家元制度反逆という歌い文句で、師匠と弟子の関係を、教師と生徒に置きかえ、月謝制度を公演という手に替えて、全国を公演して歩いた。しかし、仕事の成功に比例するように、借金がかさんだ。朱実の家まで、担保入れる始末だった。やがて、朱実は日本舞踊同盟を結成、彼女の勢力は舞踊界から抜くことのできぬ強固なものになった。が、朱実の地位を狙うものがあった。内弟子の比佐子である。比佐子は若林と結ばれていた。その現場を見られた若林は、朱実の許から去って行った。そして、比佐子と舞踊研究所を始める準備を、蔭で進行させていた。朱実は、バレーを盛りこんだ舞踊劇「日本の夜明け」を公演することに成功した。その初日、朱実は舞台で突然倒れた。間もなく、楽屋で彼女は息をひきとった。比佐子は記者たちに、「わたくしが立派あとをついで参ります」と昂然と言った。