1971年の夏。自動車技師の大野光雄は、西ドイツでの一年間のエンジン関係の研究を終え、マルセイユから船旅で帰国の途についたが、出航して間もなく、ブルーの眼をした、静かな、やさしい顔だちの修道女、マリ・テレーズを知った。スイス生まれの彼女は、「小さなマリアの姉妹の会」という修道会に属し、一度日本の土を踏んだことがあるが、体を悪くして帰国し、再度、日本に赴任する途中だった。マリ・テレーズは灰色の長い尼僧服を着て、腰に数珠をさげていたが、それが彼女の身につけているすべてのものだった。彼女は、船旅を利用して、各地にある支部を訪れるのも仕事の一つだった。船はカサブランカ、コナクリ、ケープタウンを経て、スリランカのコロンボに寄港した。大野はマリ・テレーズの誘いで、シモーヌ修道女に逢った。シモーヌ修道女が歩んで来た二十五年の長い苦難の道に大野は驚き、感動した。船はカルカッタに入り、マリ・テレーズと大野は、ダッカにいるアンドレ修道女を訪ねた。多くの人間が飢えと疫病と弾圧にさらされている中で奉仕を続けるアンドレ修道女は、疲労のため精神も錯乱し、大野たちの目前で、果物ナイフを自分の腿へ突き刺した。かって、大野も、新型エンジンの開発に没頭して疲労し、自動車事故を起して神経科の病院に入院したことがある。当時、同じ会社の広告デザイナーの直子と婚約した大野だったが、静養と仕事を兼ね、単身、渡独したのだった。横浜港には直子が待っていた。彼女は全身に喜びをみなぎらせ大野を迎えたが、大野は同じように感動できなかった。大野の胸の中には、マリ・テレーズへの愛が波紋のように広がっていった。すべてを犠牲にしても構わないと思う程の強い愛が……。やがて大野は、マリ・テレーズが書き残したアドレスをたよりに東京の支部を訪ねたが、彼女は北海道へ移った後だった。大野は後を追い、北の岬でマリ・テレーズと再会した。愛を打ちあけ、唇を求める大野。彼女の心の葛藤の激しさをあらわすようにオホーツクの海が咆哮し、身もだえた。「私も、あなたを愛します」マリ・テレーズは涙の顔をあげて言った。「私には、この愛以上のものはありません。だからこそ、私はいま、それを試練だと感じます。私がどんなにあなたを愛していても、それは許されないことです」マリ・テレーズの顔には、神の試練に対する厳しい決意の色が浮かんでいた。「誰かが貧困や戦争の中へ行って人間の魂の豊さが、眼に見えるものや物質だけで支えられているものではないことを証さなければならないのです」大野の愛をふりきったマリ・テレーズは独立戦争の始まったバングラデシュへと旅立っていった……。