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義父と末期癌の夫の介護、息子の結婚、ご近所問題、更年期等々、五十女を取りまく問題がこれでもかと列挙される。しかしそれらが深掘りされることはない。極めつきは新興宗教。いつ企画されたのか知らないが、せめて今カルトをやるなら、それ相応の覚悟を持った描き方があるのでは。すべてスケッチ。なぜラスト、お天気雨で踊れるのか。やさしいふりして、結果、誰にもやさしくない。映画も人生もナメているとしか思えない。ミア・ハンセン=ラヴの爪の垢を煎じて飲んでもらいたい。
いつにも増して図式的な人物と物語。母親、担任、息子の三視点(校長も入れて四視点か)で同じ時制が語られる。で、結局、人に知られてはダメと思い込んだ秘密を抱える息子の嘘がすべてを狂わせたという話。大仰なタイトル。これ、怪物なんて誰もいない中で、閉塞的な社会が怪物化して、弱き者が犠牲になるって話なの? それをこんなもったいぶって語ってるの? 秋元康の小器用さに通じる嫌らしさ。脚本も良くない。いつも以下の是枝映画。海外もいい加減、有り難がるのをやめたら。
水不足の夏。料金未払いの家の水を止める水道局員。電気ガスはすぐ止められても、水道は最後の最後。ライフライン=命を奪う自責に蓋をする局員。その生い立ちは最低限の言葉でしか語られないが、ちゃんと見える。「怪物」と違い、人物がみな生きている。それはネグレクトの母親も同じ。子供は可愛い、でも自分の欲望も捨てられない。子供も母を憎めないから余計に苦しい。何も解決しない大団円。「波紋」と同じ水が題材でここまで違うものか。及川章太郎の脚本が素晴らしい。傑作。
高校生カップル。事故で目覚めない男の枕元でユゴーの『美男ペコパンと悪夢』を読む女。それが映像になる。が、その劇中劇が面白くも何ともない。現実話と何もシンクロしないし。しかも学芸会。CGもチャチ過ぎて。予算もあるだろうが、この程度しか出来ないならやるべきではない。世界に笑われるって。そういう客観視点を持たないと。だいたいなぜこの原作をやろうと思ったのか。何の勝算があるのか。監督も脚本家もプロデューサーも作る前に自分に問うてほしい。なぜ作るのか。
人間誰もがもつ普遍的な悪意に迫っている。介護している寝たきりの義父への、家を出ていった無責任な夫への、恋人を連れてきた息子への、理不尽な要求をする客への、庭を荒らす隣の猫への、主人公が抱く悪意。そこから目をそらさない。多くの映画はカルト宗教を社会の病理として描くが、この作品は問題を社会のせいにしていない。ひたすら個人の悪意を掘る。そうすることで、さまざまな社会的規範によってがんじがらめになっている一人の女性の解放を模索する。荻上直子の新境地。
坂元裕二の精緻な脚本により、是枝の社会を見る目がより辛くなった。モンスターペアレントも、事なかれ主義の教師たちも、本心のつかめない子供たちも、どこにでもいる人間なのに、誰もが怪物のように見えてしまう。そんな現代社会をよりドライにとらえている。他人の脚本を得たことで、演出もドライになったのかもしれない。他者の痛みへの想像力を欠く分断された世界に対する批判もあるのだろう。でも最後には人々が許され、解放されていく。そこはいかにも是枝映画らしい。
水の表現、渇きの表現がすばらしい。水のないプールで踊る姉妹、日照りの中を歩く水道局員。川の水、公園の水、金魚鉢の水……。どれも映画でしか描き出せない感覚だ。河林満の短い小説をここまで映画的な表現に昇華させた髙橋正弥監督に拍手を送りたい。原作が書かれて33年もたつというのに、少しも古びた感じがしないのは貧困や格差が確実に広がった証なのだろうが、何より、主人公の水道局員が直面する、生きることの難しさという主題に真摯に向き合っているからだ。
ヴィクトル・ユゴーにこんな小説があるとは知らなかったが、臆せず映画化した挑戦心を評価したい。現代日本の高校生カップルの物語と交錯させることで、怪物や悪魔が跋扈する中世のダークファンタジーを夢の中の出来事として描くのも賢明な方法だ。ありがちな青春恋愛ドラマに、19世紀のフランス小説の世界が乱入する。そんな大胆な発想が、メジャーでなくてインディペンデントから出てくるというのが日本映画の現実か。CGをハリウッドと比べるのは詮無いことだ。
新興宗教もガンも難聴も独居老人も各々に切実で、安易に扱ってはならぬデリケートな題材と思うが、更年期気味の主婦を襲う波状攻撃の一環として矮小化されて見えることに、違和感も。それらの象徴のごとき続々と現れる人物を、どいつもこいつもな曲者揃いに設定することで、独善的な偏見まみれのステレオタイプからは免れているが、主人公の何にでものめり込みやすい極端な気質をシニカルかつダイナミックに示唆するクライマックスは、見せ場づくりのためかと唐突な印象を与える。
“モンスターペアレント”と教職員との溝を双方の視点で露わにするなど、大人同士の歩み寄りは試みられるも、終盤は完全に子どもの世界に移行するせいか、世代間の認識のズレは埋まりきらないもどかしさが残る。大切な何かを守るためとはいえ、他者の人生を壊す嘘をついた罪は、ラッパの遠吠え程度で吹き飛ばせるはずもなく、是枝作品上位の清々しい余韻にも、少々とまどう。坂元裕二の主戦場の連ドラなら、いびつな葛藤に悩む人物個々も描き込めたと思われ、消化不良の感は否めず。
ひとの生き死にさえ左右し得る、停水執行が生業の水道局職員の日常が照らす、矛盾だらけの社会。屈託のない後輩とのやり取りが、深刻な内容に潤いを与える反面、主人公のアメリカン・ニューシネマを思わせる抵抗に踏みきるまでの心の渇きや沸点の高まりを捉える上では、逆効果にも感じる。無慈悲な現実さながらの結末に到る原作への、やるせない監督の想いは伝わるが、“希望”の微妙な匙加減で、原作者の意図から離れて綺麗ごとに映りかねない危険性も孕むと、痛感させられた。
この規模でヴィクトル・ユゴーの幻想譚そのものの実写化に挑むのは、さすがに無謀と身構えるも、連日見舞いに赴く読書家女子高生の、何かと抜けているが恋人想いの彼氏の快復への祈りも込めた脳内世界と理解すれば、見るからに日本なロケーションなども許せる気がする。“テニミュ”出身の阿久津仁愛が、自身の運命さえ翻弄することになる色男ぶりばかり強調される序盤は気恥ずかしさが覗くも、CGに負けじと徐々に持ち前の身体能力の高さも発揮し、映画界での飛躍にも期待。