本作を初めて観たのは20年前だ。その時の感想は、体制と反体制の対立の中で精神患者の尊厳を描くも、最終的に主人公は体制側の犠牲となり命を落とすというもの。大変後味の悪い結末に心が沈んだ。それ以降見返すこともなく今日に至っていた。しかし、先日松尾スズキ演出の舞台版を観て、20年前とは打って変わってさわやかな鑑賞後感を得た。映画版と真逆の印象のため、映画版を見直そうと思ったのだ。どうだろう、今回映画版を見直してみて、舞台版を観た時と同じさわやかな鑑賞後感を得た。何故だろう?20年前私は何を見落としていたのか?
本作は映画史に残る傑作であり、名優ジャック・ニコルソンの代表作の1つでもある。初見時、ジャック・ニコルソンのややオーバーアクト気味の暑苦しさ(笑)と、登場人物の多さ、ニコルソンを上回るルイーズ・フレッチャーの怪演(ただし演技アプローチはニコルソンとは真逆)だけに目が行き、ロボトミー手術の恐ろしさだけが印象に残ってしまった。そのためニコルソン以外の登場人物にまで目を配ることができなかった。日本人の私には、ここに収容されている患者たちの出自までは分からなかった。しかしネイティブ・アメリカンやアフリカ系、イタリア系など、患者たちにはそれぞれの事情があることが舞台版のパンフレットを熟読して初めて気が付いたのだ。特にネイティブ・アメリカンである大男チーフが本作の隠れ主人公であることを・・・。原作はチーフの一人称で語られているという。そう、つまりこれはチーフの物語なのである。
チーフはここでろうあ者を装い、自分の殻に閉じこもっている。チーフだけではなく、患者たちは、「外の世界」へ出る勇気がなく、なかば“自主的”に、収容されているのだ。彼らは外の世界で心に大きな傷を受けた者たちだ、たとえ傷がいえても、再び外の世界にもどる勇気がない。恐ろしい外の世界に出るくらいなら、体制のもと自由の利かないここの生活のほうが安全で楽なのである。しかし彼らの平穏な生活が、ニコルソン演じるマクマーフィーの闖入により、大きく乱されることになる。本作の見どころは、マクマーフィーの傍若無人さではない。彼の影響によって、患者たちが徐々に変わっていく過程なのだ。そのために興奮状態に陥いり電気療法を受けなければならなかったり、自ら命を絶つ者も出るのだが、マクマーフィーが彼らに施した友情と優しさは多少なりとも彼らを「良い方向」に向かわせたと私は信じる。
そう、マクマーフィーの優しさと偏見の無さを、以前の私は気づくことができなかった。もし私がここの患者たちと同様に、世間の荒波をさけ、繭の中で引きこもっている者であるなら、体制に反発する彼をただの迷惑な奴と思ったに違いない。自分勝手に見える彼だが、実は彼らを解放するために自らが矢面にたっていたのだ。その影響を一番受けたのがチーフなのである。チーフは見た目は大男だが、心は小さく縮こまっている。政府の保留地制度のため、故郷とアイデンティティを奪われた彼は、行く場所もなくこの精神病院にとどまっているのである。しかし彼はマクマーフィーの影響によって、最後は自らその殻を破って新天地へ旅立っていくのである。本作はチーフの魂の解放なのである。
最後に患者側からすれば悪役となるラチェッド看護婦長について述べたい。まるで独裁者のように絶対的な権力をふるう彼女だが、彼女は彼女の正義の元で患者たちを支配しているのである。この精神病棟は彼女が築き上げた「城」だ。彼女は彼女なりの愛情(信じられないかもしれないが“母性”といってもいい)で、患者たちを守っている。だからこそ、外の世界へ出られない彼らにとってここは安全なのである。しかしマクマーフィーの登場によって、その城がガラガラと崩れ始め、最終的にメチャメチャにされてしまった。その時の彼女の怒りが、フレッチャーの静かな演技でひしひしと伝わり、私は彼女を気の毒に思ってしまった。
もう一度言おう、マクマーフィーは優しくて偏見の無い好人物だ。彼は登場するなり、精神病患者や人種などによって差別することなく、誰にもフランクで友好的にふるまう。彼が唯一嫌悪したのは、自由を奪い束縛する体制側の人間だけだ。だから彼は患者たちに好かれ、誰にも心を開かなかったチーフの心を開かせることができたのだ。
本作のさわやかな鑑賞後感は、チーフの魂の解放と、自由と人を愛するマクマーフィーの優しさゆえんである。