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世代のせいかプロレスにはまったく明るくない私。約8年間の取材をとおして構成されたドキュメンタリーとのことだが、大仁田厚氏のキャリア初期のフッテージは用いられず、描かれるのは近年の状況と周囲の人々の大仁田にまつわる思い出や証言、彼らそれぞれの話などで、肝心の大仁田というレスラーの歴史やいまここに至るまでの輪郭が摑み難い。タイトルづけされた各チャプターも有機的に繋がっているとはいえず、うちうちの記録と物語にとどまってしまっている。
家族もれっきとした他者である、という事実を頭で理解しつつも、心に定めていることができる人はどのくらいいるだろうか。統合失調症を疑われた娘を医者から遠ざけ、状況は悪化、扉には南京錠がかけられた、と文章にしてみると凄まじく強烈で、いや、ご家族の長く壮絶な日々が映されているのだが、あの花火を並んで見る一瞬間にただただ涙が出てしまった。病への理解、人と分かりあうことの困難のみならず、老い、そして死の意味をも問い、カメラという他者が冷静かつ優しく捉える。
彼女はいったいどんな物語を書いているのか、よく分からない。不遇のきっかけを作った作家を大恨み、手を変え品を変え名前を変え、ツッコミどころ満載で大攻撃するのはいいが、売れることを最大の目的としたヒロイン像が魅力的かといわれれば疑問。あこがれのホテルもただの権威の象徴に思えてくるし、ヒロインなりの下剋上を果たしたとはいえ、彼女もそのシステムの一員になっただけでは? 橋本愛、髙石あかりはじめ各所で登場する女優陣があざとい荒唐無稽さをチャーミングに和らげる。
戦争経験者の私の祖母も花火の音で惨状を思い出すのでみたくないと言っていた。PTSDを負った元自衛官が花火工場にはいり、苦悩しながらもその傷と向かい合っていく……という話かと思いきや、一人の男の心に寄り添った、現実に強く基づいた前半から転換した後半に驚いてしまった。山本一賢の佇まいは素晴らしいが、終始全登場人物にあてられた(と言いたくなるくらい、いかにもな)台詞がそっくり場面の余白を埋めてしまうように予定調和的でかつ冗長。
大仁田厚の魅力が十二分に描かれているドキュメンタリー映画である。だが、映画のなかでその魅力を語っているのは、もともと大仁田厚の賛美者だった人たちであり、そうした賛美者ばかりが登場する映画なのである。大仁田厚やプロレスにさほど興味のない人間の眼からすると、どうしても内輪褒めのように見えてしまう部分があるのは否めない。自殺する若者が増えているという重要な問題にも結びつけようとしているが、そうした問題を扱うだけの材料を充分に提示しているとも思えない。
たまの家族旅行などを除くと、カメラは藤野知明監督の実家から出ることはない。それでも私たちがこの映画に単調さを感じないのは、もちろん、家族の一員が統合失調症を患い、それでもその両親が治療や入院を拒みつづけたという特殊な状況があるからだが、それ以上に、20年にもわたって撮影が続けられたためだ。同じ室内で、進展のない会話が試みられる様が反復される。だが取るに足らぬように見えるその映像の連続こそが時の歩みを残酷なまでに刻印し、ついには鎮魂歌となるのである。
のんと滝藤賢一の二人だからこそ成り立つ掛け合いがふんだんに見られる映画だ。とりわけのんは、自分の小説が売れるためには汚い手段にも平気で訴えるという性悪な人物を、大げさすぎると見えてしまうほどのハイテンションで演じ、コメディとして成り立たせているのは立派だし、それは堤監督の演出のたまものでもあろう。だが、主筋に付随する細かなエピソードの扱い方が雑だし、タイトルにもなっているホテルの空間が映画的に活かされておらず、めりはりのない作品になってしまった。
イーストウッドの「アメリカン・スナイパー」を髣髴とさせつつ、それに自衛隊のPKO問題が絡み、さらに新潟の花火が接続され、同じ火薬が銃弾にもなり、花火にもなるというテーマに帰着するあたりの扱いは鮮やかだ。物語そのものの設定にやや無理を感じさせる部分があったり、映画表現としての粗さもなくはないが、日本映画にはあまり見られない社会的テーマに取り組み、しかもそれが日本の地方のローカル性を踏まえて撮られている点がおもしろく、ラストの花火の映像も魅力的だ。
プロレスラーのこれまでの軌跡を描くドキュメンタリーということだが、この人にまったく関心がない者にも届く作品かといえばそうではないというしかない。彼をめぐる人のインタビューを見てもこの人の存在に興味が生じることは少なくとも筆者にはなかった。映像的にも、例えば子どもがいなかったジャイアント馬場に実子のようにかわいがってもらったとのナレーションで、まったく関係のない親子の映像を流す。そんな映画。関心がある人だけ見ればいいのではないか。
統合失調症を発症した姉を、両親が自宅にほぼ軟禁状態にする。両親が医学の研究者であったことがかえって事態を複雑にしたということはあるだろうが、この対応がまずかったことは医者に見せた後の経過を見れば明白である以上、「どうすればよかったか」という問いの答えは予め出ているのではないか(自分ならそう出来たかは措き)。従ってここには、どうしようもない現実を我々に突きつけ、どうすればよかったのかと我々を問い詰めるだけの衝迫が欠けているように思える。
芥川賞を取らせてくれと佐藤春夫に哀訴した太宰を思い出したが、そのみっともなさを含めて太宰はまっとうに文学=生を生きたと言え、そこにはイメージとしての文学などなかった。文学者たちに愛されたというホテルがまとわせるオーラのようなものは確かにあるとしても、それに寄りかかることで出来たものがまともな「表現」であるはずはないだろう。こういう使われ方では使われた方も気の毒だと思う。のんの文学臭を免れたパンキッシュな存在感が唯一の救いではある。
紛争地域に派遣された自衛隊員、そこでの活動はあくまでPKO、また自衛隊は戦争行為をしないという建前上、そこで起こった発砲も「衝突」であり「戦闘」ではないという安部政権の欺瞞を発想元としてはいるが、日本の軍事のありようを厳しく問うというより、テロというアクションを香辛料とした人情ものになっている。人の死を招きもすれば人の営みを寿ぎもする「火薬」の二重性、少年を殺す冒頭と少年を救うラストの対称性の構成の整然が作り事めいて、ドラマの深刻さを殺ぐ。