フランク・キャプラ
|Frank Capra| (監督/製作/原作/脚本)
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本名 |
- |
出身地 |
イタリア、パレルモ |
生年月日 |
1897年5月18日 |
没年月日 |
1991年9月3日 |
略歴▼ もっと見る▲ 閉じる
【ウィットの効いた人情喜劇の名手】イタリアのパレルモで生まれ、1903年5月に一家そろってアメリカに移住した。ロサンゼルスのマニュアル・アーツ高校に通う。家が貧しかったので、弟と一緒に新聞の売り子をしたり、赤線地帯で歌を歌ったりした。母は高校を退学して働くように強いたが、アメリカン・ドリーム実現のためには教育が必要と確信していた彼は拒否。15年にカリフォルニア工科大学に入学し、化学工学を学ぶとともに詩の美に目覚める。スペイン風邪にかかって三カ月で陸軍を除隊し、回復期にジョン・フォード監督の「さすらいの旅」(19)のエキストラとなり、スターのハリー・ケリーと知り合う。20年後の「スミス都へ行く」に、脇役だが、ケリーを起用している。20年3月、CBCフィルム・セールス社(のちにコロムビアと改称)に雇われ、編集者、スターの近作を紹介するPR短編を監督。8月に退社して、ギャンブルにふけったり、ぶらぶらしていたが、1年後に小さな映画会社で二巻ものを撮るようになり、24年1月にハル・ローチに雇われて、わんぱくな子供をテーマにした喜劇シリーズ「ちびっ子ギャング」のギャグマンとなる。監督昇進を拒否されると、キーストン・スタジオに移り、ハリー・ラングドンのギャグマンとなり、ラングドン主演の「当たりっ子ハリー」(26)で監督デビューする。だが、ワンマンなラングドンとはうまくいかず、ニューヨークに行きクローデット・コルベールの第一作「力漕一艇身」(27)を撮るも、失敗に終わる。【コロムビアの地位向上に孤軍奮闘】27年10月にコロムビアのハリー・コーン社長が彼を監督として契約。この契約がコロムビアとキャプラの運命を変えることになる。最初は1本1000ドルだったギャラが、翌年には3000ドルになった。「或る夜の出来事」(34)でアカデミー賞作品賞、監督賞、脚本賞(脚色部門)、主演男優賞、主演女優賞と5部門を制覇、当時は規模が小さく、看板スター、看板監督のいないコロムビアの地位向上に貢献した。コロムビアでは「オペラ・ハット」(36・題名の前に初めてキャプラの名前が出た)や「我が家の楽園」(38)、「スミス都へ行く」(39)といったアメリカン・ウェイ、ファミリー・ヴァリューを称揚する作品を監督。39年にフリーとなり、「素晴らしき哉、人生!」(46)を撮り、改めて人生の素晴らしさを謳いあげた。息子のジュニアは映画プロデューサー、孫の三世は助監督となる。「若い監督への私の忠告は、トレンドについていくな、自分でトレンドを始めろ、だ」
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