線香が焚かれている.そこには祈りがある.工科大学には優秀な学生たちが集まっており,学長(ボーマン・イラーニー)の方針もあって,競争が強制させられている.学長はウイルスとあだ名され,学生たちにプレッシャーをかけ,時には自殺に追いやる.デリーに限らず競争社会の熱はそれほどまでにこの国に蔓延しようとしている.
雨に濡れている.小水をかける.シャワーを浴びる,水をぶっかけ,ソースをかけ,道路は冠水している.こうした水分や湿度は,終盤に向け,より水位を高めていく.電気的なもの,機械的なものは,こうした水によって麻痺させられながらも,電気や掃除機などの家電が物語の鍵を握ってもいる.例えば,後半には,ラージュー(シャルマン・ジョーシー)が墜落し,全身を麻痺させてしまう.しかし,彼に繋がれた機器は,彼を計測し,心拍数らしき数字を見ながら,ランチョー(アーミル・カーン)は彼を視覚的に,あるいは聴覚的に刺激していく.例えば,パソコンを通じてビデオ通話をし,通電されたスプーンに小水がかけられる時,電気は反撃へと転ずる.エンジニアになるために機械や電気に通じていること,願わくば機械に使われ,機械にすり減らされないために学べるよう,祈りが捧げられているようにも感じる.ファルハーン(マドハヴァン)は野生動物の写真になろうとするのも,カメラというやや古典的な近代技術に留まり,世界の野生に向かいたいためなのだろう.チャトゥル(オミ・ヴァイディア)ら学生一般の競争的な志向もやや古臭いものに見えてきてしまう.
トイレばかりが映される.食事や酒類も愛好されている.上の口から下の口まで全てが通じており,歌やダンス,そしてパンツ姿,鼻のピアスなど,彼女ら彼らの身体は,どこからでも繋がり,どこかへと繋がっている.道端にも神がいる.窓から出入りし,うねうねとした山道を車で飛ばしていく様子を空中を漂うキャメラが映し出す.そこからは,まるで映画のような世界へと通じているのではないだろうか.バイクのヘルメットは,機械的な何かから頭を保護してくれるとともに,映画の世界への仮面として女や男に与えられている.