チャップリンが長い間入院していた病院をこっそり抜け出して、久しぶりに自分の家に戻ってきてドアを開けると...あれは何匹だったかな、10匹ちょっとくらいだったかなぁ...、中から次々と猫が飛び出してきて、大猫、子猫、白猫、黒猫、モタモタしているのも居れば、小回りを効かせるのもいて、猫背を更に膨らませて怒っているのもいる。
芸で見せるギャグ満載の中で、唯一、動物を使ったギャグだった。録画を巻き戻して何回も観てしまった。
平和な小庶民の微笑ましい生活をベースにした笑いは「街の灯」や多くの短編でチャップリンの独壇場になっているが、この映画では毒のある人間像を風刺するギャグが冴える。
独裁者を暗殺する実行者を「民主的に」選抜する場面が可笑しい。
仲間5人のうちから実行者を選ぶことにする。「選ばれた者の犠牲的な行為は讃えられるべきである」とリーダーが説くと、チャップリンを含む仲間たちはみんなもっともらしく深くうなずく。でも、自分だけは命を失いたくない思いも強い。5人の仲間はくじ引きをする。コインの入っているケーキを引き当てた者が暗殺実行者に選ばれることにする。
早々とチャップリンがコイン入りのケーキを引き当てるが、咄嗟にさり気なく左隣の仲間のケーキと入れ替える。ところが右隣の男もコインを引き当てており、素早くチャップリンのケーキとすり替える。チャップリンにしてみれば、せっかく左隣へ移し替えてホッと安心したのも束の間、間髪を入れず右隣からコイン入りを差し入れられて驚愕に変わる。こうして、さり気なく仲間の間でケーキの入れ替えが繰り返されるうちにチャップリンの所にコイン入りが集まって、その都度、気取られぬようにそっとコインをケーキと一緒に頬張る。何とか飲み込もうと試みるが巧くいかない。口の中にどんどんコインが増えて、しゃっくりをするとその振動でチャラチャラと音がする。
建前としては選ばれることの崇高さを賛美しながら、本音は自分だけは選ばれたくない。本音と建前のズレを映像で見せて、その狭間に起きる自己欺瞞を笑いの素材にしたアイデアはお見事。
ところが、コントはこの繰り返しだけで終わらない。笑いのギャグが新たな次元に転調する。
最初に自己犠牲の尊さを説明したリーダーだけは正直に、自分の手元にあったケーキに(実際は隣の男によって差し替えられていた物なのだが)、コイン入りを引き当てたことを仲間たちに告げる。
そこへこれらのケーキを運んだヒロイン(ポーレット・ゴダート)が飛んできて、「馬鹿馬鹿しいことと思って、全部のケーキにコインを入れたわ」と暴露する。みんなが驚いている隙にチャップリンは口から何枚ものコインを吐き出して周りを横目で窺いながら素早くポケットに仕舞い込む。
これでもか、これでもかと、新たなギャグへの転調に笑ってしまいます。
いじましく小狡い男たちを笑いの素材にしているブラックコメディが見事だ。
然も、このコントに使われたコインを忍ばせたケーキというのはフランスのガレット・デ・ロワの伝統をもじっているのも念が入っている。ガレット・デ・ロワはフランスの正月に食べるケーキで、切り分けられたケーキに「フェーブ」(陶器製の置物)が入っていたら幸福が訪れるというならわしがある。映画は「幸福探し」の故事を「暗殺者探し」に差し替えて、見事なコントに仕上げる。
完全な防弾着を発明したというので、それを着用した被験者を独裁者が気軽に撃った一発でドタッと倒れて即死する。シンプルかつブラックなショートコントもある。
制作当時のリアルタイムでのヒットラー批判は多くの方が語っているようにチャップリンはすごいことをやってのけたと驚きを超えて感動すらある。ナチのロゴマークである鉤十字がバツ印になっているだけでも大変な風刺ではないか(バツでなくクルスにも見えるところが、十字軍旗との連想もあってスレスレの綱渡りでもある)。確かに最後の演説にはお仕着せがましいとか賛否両論あるのは分かる。私の場合、プロパガンダに走った作品は、この一点において減点してきたのだが、この映画での演説はそんな批評を寄せ付けない肉薄したものがある。
現役の政治家(それも独裁者)を批判する映画を作るのは、我が身の安全を考えれば簡単にできることではない。ときには命がけだ。