冒頭で、親友のクリス(リバー・フェニックス)が死んだことが新聞記事になっている。それを読んで呆然となる大人になった主人公のゴードン(リチャード・ドレイファス)。何度も見た映画だが、見直すとこのドラマが実に巧妙な仕組みの中で計算し尽くされた作品であることがわかる。この冒頭のシーンは、ゴードンが誰にも話さなかったという、旅の途中ひとりで鹿と遭遇したシーンに呼応しているようだ。クリスから「困ったら俺達のことを書け」と言われ、ずっと口にしなかった思い出を小説にすることと、鹿と出会ったことを沈黙することは同じなのだ。言葉や文字にすることで価値は半減する。本当の思い出は個人の内側にあって誰もほかの者が覗き込むことはできない。にもかかわらずどうしてこのドラマを文字と映像にする必要があったのか。
ロバート・レッドフォード監督の「普通の人々」が1980年に公開され、スティーブン・キングの原作が1982年、そしてこの映画が1986年である。描かれた時代は1960年代だが、これらの作品が公開された時代こそ、のちの時代に強く問題を残す新自由主義が解き放たれた時代。ロナルド・レーガン政権の頃だ。
小さな貧しい街で暮らす少年たちのそれぞれに言葉にできない問題を抱えている。メガネのテディは尊敬する父親から受けた虐待。クリスが教師に給食費をネコババされた悲劇。そして何より主人公が兄の死によって父親から期待されない悲劇。こうしたことは、この時代とアメリカに存在する家父長制や偏見などが絡まり合う。
こうした背景を想像することで、かつて見た映画の思い出がより深く広く感じられる気がする。この映画は、アメリカそのものを示すドラマなのだ。