フェリーニの切り口のうまさ、芸術性が見事に結実した映画。最初の車が渋滞して主人公の映画監督が空に向かって飛んでゆく、そしてその足にロープがかかって・・・という変わったシーンから、映画は普段見たこともないような世界に誘う。
映画監督のグイドの孤独を描くこの作品。ジブリの鈴木敏夫プロデューサーが「監督になると友だちをなくす」と言ったとおり、この映画のマエストロは自分がそれまで得てきた人脈のすべてを自分の責任で崩壊させてしまう。映画監督の破滅を描く。
人物の会話の中にプラグマティズム(実用主義)やカトリックとマルクス主義、あるいは共産主義という言葉が飛び交うのは時代。1963年に公開されたこの映画の時代はときの冷戦時代。イタリアのファシズムは第二次世界大戦て日本やドイツとともに敗れ去ったが、その後のイタリアは東西冷戦構造の影でどちらともつかない中途半端な立場だった。そのこともこの映画監督、そしてフェリーニ自身の逡巡と重ね合わせている可能性があるのではないか。
映画の途中で部屋にヘンリー8世(「わが命つきるとも」でロバート・ショウが演じた)の肖像が飾られているが、アン王女(アン・ブーリン)を処刑し次々と女性を変えたときの王とこの映画のマエストロも重なる。男性中心主義的な社会で、この映画の主人公が後半になって次々と付き合いのある女性から好き勝手な要求を受けて混乱するが笑えない。「パウロの回心」(暴君パウロが悔い改める)もこの映画のセリフにちらりと出てくる。フェリーニは徹底してこのように伏線を張りめぐらせている。枢機卿と対面するシーンなどもこうした一連のシーンに重ねられている。
後半はもう映画が予算を使い、大きな足場を重ねたセットが立ち上がる前で記者会見する監督が自らピストルで死のうとするシーンなどで、もう彼に新作のアイデアがないことを示して終わってゆく。それを出演者全員で祝福するように終わるのだ。
映画館の中で死刑執行をするシーンは衝撃だ。映画が命がけで無駄な行為をしていることの象徴。ある意味でフェリーニは全てにおいて冷静だ。この映画も突発的にできた映画ではなく、彼自身が「死」を意識して作った映画であることが明らかとなる。「死」の匂いの濃い映画だ。