士官学校の教授と無頼の友人と、彼らの妻、後妻との関係を幻想的に描いてゆく。
鈴木清順監督。田中陽造脚本。4Kデジタル完全修復版。1980年。
冒頭は列車。ウィスキーを飲み、本を読むインテリの男、青地。その眼差しの先に、握り飯を頬張る若い女と彼女に漬物を与える年寄り、その通路でしゃがみしゃっくりでもするかのような奇妙な声をあげる若い男。インテリがウィスキーの入った水筒のキャップを落とした音に反応する三人。盲目だ。
この奇妙な冒頭。鈴木清順の作品は、人物造形とその言動に形式化されたモディファイが施され、リアルさと一線を画した世界を描き出す。
転じた海岸のシークエンスは、数十人の人々の群れが右往左往しつつ、トウモロコシを頬張る長髪の男、中砂を挟み込む。溺死した女をめぐって、男が下手人として疑われている。
ここから、青地と中砂の男二人の食と性と死がほぼ幻想譚として描かれる。彼らに関わるのが、小稲という芸者。そして、小稲にうりふたつの女、園。青地の妻、周子。義妹、妙子。
男女の関係が重なりあって絡み合う。
この本編の幻想譚の合間に盲目の芸人一行三人の旅が「滑稽物」として挟まれる、主人公男女に対する合わせ鏡であり、富裕という駄肉を削ぎ取った彼らの本質なのだと示しているようだ。
終盤は、誰が生きているのか、死んでいるのか、混然となってくる。幻想の極致に達して、青地の死を暗示して、ぷつんと終わる。
ツィゴイネルワイゼンのレコードのエピソードが語られ、意味不明の声というモチーフが、物語に点在し、幻想譚の違和感を増幅し、終盤はそのレコード自体が青地と周子と中砂と小稲の因縁の印となり、小稲と娘富子により青地の死出へ誘うチケットともなる。
ひたすら幻惑されて、白日夢として楽しむ。奇妙な時間を過ごした。
こういう経験は、これまで、ほぼ無い。大林宜彦監督の晩年の作品にもあった感覚だが、鈴木清順監督のそれは、メッセージ性を極力排除し、極めて個人的な情感の遊びとしての幻を出現することに注力している。
が、この個人的という括りが実はとても政治的なメッセージではある。