「いつの日も明日は明日の風が吹く」
午前十時の映画祭15にて鑑賞。
我が生涯第3位(途中までは1位だった)の本作が、今後もこの地位を明け渡すことはないだろう。
13歳で初めて全編鑑賞した時の達成感は今でも忘れない。以来、何度も観てきたし台詞も粗方覚えている。にも関わらず何故今更スクリーンで観るのか?答えはただひとつ、そこに「風と共に去りぬ」があるからである。
午前十時の映画祭15がラインナップを投票で決めると発表した際、僕は真っ先に本作に票を入れた。むしろ焦ってさえいた。何度も観た作品だが劇場で観たことがない。加えて昨今の多様性の風潮からすれば、本作は真っ先に批判の矢面に立たされる作品であり未来永劫劇場で上映されなくなるかもしれない。そんな焦りがあったからラストチャンスのつもりで票を入れた。
幸いなことにラインナップに滑り込み、そしてようやく念願叶った。開始早々のジョージアの夕陽をバックにタイトルが横すべりし、「タラのテーマ」が鳴り響くシークエンスだけでもう涙目。4時間近い上映時間があっという間だった。
奴隷制度、そして南北戦争という日本人には馴染みの薄い題材ながら、本作が日本人に与えた影響は計り知れない。日本人を最も絶望させ、そして希望を与えた作品と言っていい。アメリカ公開の2年後に始まった太平洋戦争当初、向かう所敵なしだった日本軍は各地で本作のフィルムを押収した。フィルムを観た人々が口を揃えて言ったこと、それは「こんな映画を作る国と戦争をしても勝てるわけがない」だった。やがて日本は敗戦を迎え、1952年になってようやく日本でも一般公開となり、以来多くの観客が劇場に足を運んだ。戦争で荒れ果てたタラで、スカーレット・オハラ(演:ヴィヴィアン・リー)が朝日に向かって「二度と飢えには負けない」というシーンは、当時の日本人の支えとなった。はっきり言って、スカーレットはゲスの極み乙女だ。自分の目的のためなら手段を選ばないし、仮に自分の目の前にいたら本来であれば大嫌いになるのが自然である。しかし不思議と彼女のことは嫌いになれない。彼女がすることは不思議と許せてしまう。彼女は狡い、しかしそれ以上に行動できるところに僕は強さと憧れすら抱いてしまうのである。レット・バトラー(演:クラーク・ゲーブル)との関係も、擁護をさせてもらうならば彼女たちふたりきりであればうまくいったのではないかと思う。或いは結婚ではなく業務提携だったならば。しかし時には優しさすら彼女たちの邪魔になったがために結局すれ違いのまま終わってしまったのは残念でならない(個人的にはボニーですらふたりの関係をおかしくしてしまったと思っている)。
書きたいことはいくらでもあるし、原稿用紙をいくら渡されても足りないというのが本音なのだが、兎にも角にもスカーレット・オハラという存在は自分にとっては永遠に憧れであるし、いつでも心の片隅に留めておきたい存在なのでえる。
本作の製作は混乱を極めた。元々がベストセラー小説の映画化という経緯もあり、監督は二度も交代、スカーレット役は全米でオーディションを行っても決まらず、キャスト未定のまま撮影開始、さらには台詞の表現やキャストの起用を巡って製作費の裏で罰金や課徴金も多く課された。それでも本作が今日まで不滅の存在たり得ているのは、スカーレット以上に強情なプロデューサー、デヴィッド・O・セルズニックによるところが大きい。製作当時は相当嫌われたらしいが、これだけの作品を遺してくれたことにただただ感謝したい。
明日もまた別の作品を劇場で観る予定だが、果たしてこの余韻を引きずらずに行けるだろうか...考えるだけで頭が痛くなる。まあいい、明日のことは明日考えよう。