1973年のフランス映画。2025年の4K修復版。ステファン・ウルの小説「オム族がいっぱい」を原作とするアニメーション映画。惑星イガムでは、かつて文明を有していたオム族は巨大で肌が青く赤い目のドラーク族に支配され駆除すべき対象になっていた。ドラーク族の子どもたちの遊びで母を亡くしたオム族の赤ん坊が知事の娘ディーヴァに拾われテールと名付けられペットとして育てられる。ディーヴァの学習に付き合うテールも知識を得ていく。ドラーク族は一日の大半の時間を瞑想に費やすが、ディーヴァも瞑想する年齢となり、その間に教育システムを持ってテールが逃走する。森でオム族の少女に助けられ廃園の大木の隠れ家へ。テールは始め胡散臭がれていたが、ドラーク族の文字が読めるため重宝がられるようになる。また持ち出した教育システムで皆が知識を得るようになる。ある時壁に「人間絶滅作戦」と書かれているのを見つけ、夜一人で外出した所オム族の別の部族である木の穴族に捕まってしまう。壁に描かれた文字から明日人間絶滅作戦が施行されると説いても誰も信じない。翌日毒ガスをまき散らす機械が廃園を走り回り多くのオム族が亡くなってしまう。木の穴族の老婆に助けられ脱出したテールたち。ロケットの墓場に隠れ家を移し、打ち捨てられたロケットを人間用に改造し、衛星である野生の星を目指す。人間狩りがロケットの墓場までやって来るが、野生の星に着いたテールたちは、そこで首のないマネキンが沢山放置されているのを目撃する。そしてそこへ瞑想によって離脱したドラーク族の意識が首になるとマネキンたちはダンスを始めこれによって生命エネルギーを得ていたことを知る。ロケットのレーザー砲でマネキンたちを次々破壊していくとドラーク族は大きなダメージを受けてしまう。ドラーク族の知事はオム族に和平交渉を提案し共存共栄の道を模索する。野生の星のほかに人工の衛星テールを作りそこにオム族たちの大半が移住し、惑星イガムでは残ったオム族とドラーク族が共に生きる世界となるのだった。
これが半世紀も前の作品だと言うことにまず驚きました。アニメーション技術は現在とは比べる術もありませんが、この世界感は独特でアニメーション以外で表現することはまあ無理。現在ならCGを駆使して作れなくもないでしょうが、独特な様々な生物をCGで描いていくには相当の時間と費用がかかりそう。位置をコントロールされる首輪をつけられたテールだけど、ことあれば逃げ出そうとするその不屈の精神はどこから湧いてきたんだろう。逃走後に生き延びられたのはかなり偶然の要素が多く幸運だったとしか言えない。オム族の文明の痕跡というものが残されていたことから、ドラーク族はよそからの侵略者だったのかな。ところでドラーク族の食事っていったいどんなだったんだろう。家畜とか何かを栽培している感じはなかったし、でてくる植物や動物などの生物たちはオム族サイズで、ドラーク族に見合う巨大な物ってなかった気がするんだけどなあ。オム族はオム族で派閥が出来ていたリ違う部族がいたりでオム族が手を取り合ってドラーク族に対抗しようとしていなかったことも興味深かった。ドラーク族の文明や技術の発達が向かう方向性が人間であるオム族とずいぶん違っていたことや、オム族の特性を甘く見ていたことが敗因なんでしょうね。ところで人間狩りで毒ガスをまき散らしていた時、ガスマスクをつけて走り回っていたドラーク族側のオム族はいったい何をしていたんだろう。またロケット墓場に白い塗料を打ち付けていたけどあれはどんな意味があったんだろう。衛星の名前をいくらテール(terre)としても、これが地球のはじまりとはとても思えず、全く別の銀河の別の惑星のお話のままで違う種類の生命体でも共存できるということで良かったんじゃないかなあ。