1989年のイタリア映画。「モリコーネ」公開記念上映で鑑賞。イタリアシチリアの小さな村の映画館シネマ・パラディソ。教会が運営する映画館は村唯一の娯楽施設だった。父が戦争から帰ってこないため母と妹との三人暮らしのトトは、教会の手伝いをしていたが映画に興味を持ち映写技師のアルフレードのしぐさを見てフィルム操作を何となく覚えていた。神父の意向でキスシーンなど性的なシーンをカットしての上映だったため映写室にはカットされたが戻す場所がわからず放置されたキスシーンのフィルムが奉仕されていた。映写室へ入り込むことを続けている中でアルフレードと仲良くなり映写機の操作を会得するがある日フィルムに引火し火事となり、アルフレートは命は助かるが顔面のやけどで視力を失ってしまう。ロトを当てたナポリ人がヌーボー・シネマ・パラディソとして映画館を再建し映写技師としてトトを雇う。教会の検閲がなくなったフィルムが上映され村人たちはキスシーンを拝めるようになった。その後フィルムも不燃性となり青年となったトトは都会から転校してきた銀行員の娘エレナに恋し愛し合うが、トトが兵役に就きエレナが都会の大学に入学することで離ればなれになり、いつか手紙も届かなくなる。除隊後村に戻るがアルフレードから村を出て自分の好きな事をしろと後押しされ村を出るが、そんなトトにアルフレードは決して連絡をしたり戻ってくるんじゃないと念を押すのだった。都会で映画監督として成功していたトトことサルヴァトーレのもとに30年ぶりに母親から連絡が入りアルフレードが亡くなったことを知らされる。久しぶりに戻った村の様子はだいぶ変わっていて、映画館は既に閉館し荒れ果てていた。かつて自分が撮影した8㎜フィルムを見たりして過ごし、アルフレードの葬儀に参加した。アルフレードの妻から知らされたのは自分の死をトトに知らせるなといわれたこと、そしてトトに渡せと言い残されたのがフィルムの缶だった。ローマにもどり試写室でそのフィルムを見るとかつて神父の検閲でのぞかれたキスシーンのフィルムをつなげたものだった。
平成元年この映画はどこで観たのだったのだろう。その当時この映画を見てやっぱり映画っていいもんだよなあなんて思った気がする。映画を観るようになり映写室やフィルムの切れ端にはなんか思いめぐらすものがあった。今じゃデジタル上映なので場面をカットしてもフィルムの切れ端なんて出てこない。好きなシーンをつなげて自分なりの作品を作るのもダウンロードした映画をちょっとしたソフトを手に入れれば何とかできちゃう。でも昔はそんなことはできなかった。ビデオテープで手に入れた映画をコピーガードをかいくぐってつなげることはできたかな。キリスト教会の神父が映画館を経営し独自の検閲を行った後の上映という特殊さはあるが、検閲ではじかれたシーンをつなぎ合わせた最後のフィルムを観ていて甘酸っぱい懐かしさでいっぱいになるサルヴァトーレの気持ちは涙が出るほどよくわかる。でもアルフレードはそんな懐かしさに浸るのはしっかり成功した暁なんだと、成長途中でそんなものを振り返ってはいけないんだと訴えていたのが心に響くなあ。「エンドロールのつづき」でサマイに対し先生がかけた言葉とおんなじで、田舎に留まっていたんじゃ何もいいことはないというアルフレードの考え方は都会と田舎の環境の違いだけでなくそこに住む人々の気持ちの問題なんじゃないかな。より高みを目指すためにはぬるま湯につかっていたんじゃ無理だということ。人生の半ばを過ぎ余生に足を踏み入れた今、より一層アルフレードの言葉が身に染みたなあ。