「午前10時の映画祭」にて、30年ぶりの再見。
前回観た時も大変良いと思ったが、今回改めて観て、前回よりも感動した。
前回観た時には、シネスイッチ銀座で若干色褪せた昔のプリント。
今回はデジタルリマスターされて、公開当時の美しさで甦った映像での再見。
もうこの美しいショットの連続、そしてアヌーク・エーメの信じられないほどの美しさに驚愕した。
ストーリーは男と女のよくある陳腐なストーリーである。
それがクロード・ルルーシュの流麗な映像感覚で描かれることで、この陳腐なストーリーが普遍的な男と女の恋愛として提示され、さらには普遍的な人間の人生を描いた芸術にまで昇華されている。
セリフがなく、音楽だけでドキュメンタリー風に映像をつなぐ手法は、現代のプロモーションビデオやミュージックビデオを先取りしたかのような印象である。
私は昔これを観た時、これって新しい映画の文法を発明してないか?とさえ思った。
バラバラなエピソードの映像を断片的につないで一つの表現にしてしまう。
それをセリフなしで、ただ音楽を通してそのような映像をつないで見せ続ける斬新な話法。
この60年代の作品の演出・編集・映像は、90年代に観ても新鮮な印象であった。
だが、どの映画史の本を読んでも、本作については映画文法の革命とまでは書かれてない。
映画の文法、映像話法の観点で言えば、ゴダールの「勝手にしやがれ」やオーソン・ウェルズの「市民ケーン」などのような扱われ方はされていないのである(もちろんこの映画自体は評価は高いのだが)。
今回再見してその理由がわかった。
これはそれまであったカットバック、フラッシュバックの技法をルルーシュ流に表現し直したものであった。
新しい技法ではないが、もともとある技法を洗練されたスタイルで見せたということだ。
しかしルルーシュが見せたこの映像感覚は、後の映画、いやCMやプロモーションビデオやミュージックビデオも含めた映像全般に、大きな影響を与えたであろうと思う。
この映画の触感というか質感みたいなものは、これ以前の映画にはあまり感じられなかったものである。
陳腐でよくある男と女の物語が、もうまるで記憶の走馬灯のように描かれる。
男と女が出会う。そして少しずつ惹かれあう。
徐々に炎に火がつく。その火は燃え上がるような熱情にまで高まる。
そうして2人は身体を交わす。だがその直後から炎のような熱情が嘘のように引いていく。
虚しさから自分にも相手にも嫌な思いが残る。しかしやはり相手への想いは断ち切れない。
そして2人は再びホームで抱き合う。
この男女の姿がセリフなしの映像で、あのフランシス・レイの甘美な音楽で提示される。
もう本当に恋する男と女の姿がそこにある。
この映像は、もはやかつての自分の恋愛の追体験かのようであった。
男と女の恋愛を、これほどまでに美しい甘美な映像で描いたクロード・ルルーシュはかなりすごい。
ルルーシュは通俗作家のような扱いを受けたりもしているが、少なくとも本作で見せたこの演出は大変素晴らしい。
これは紛れもなく映画史上に残る大傑作だと思う。