徳川初期の明歴二年。加賀百万石の屋敷前で、旗本新藤源次郎が切腹した。ことのおこりは、過日上覧能が催された折、源次郎が退屈の余り無遠慮な欠伸をもらしたことにあった。舞台で舞っていた前田加賀守は、自分の能にケチをつけられたと思いこみ、源次郎の処分を幕府に迫った。大藩を嵩にきた理不尽な申し入れに、旗本一同は、大久保彦左衛門、青山播磨を通して松平伊豆守にとりなしを願い出た。騒ぎは大きくなり、旗本と大名の対立となった。この騒ぎを知って源次郎は、自分一人が腹を切ればすむと、潔よく男らしい最期を遂げたのだった。ある春雨に煙る一日、播磨は新藤の墓標に参った。その帰途、播磨は腰元お菊と結ばれた。己にまめまめしく仕えるお菊の態度に、播磨は将来を誓った。源次郎の死を契機として旗本の近藤、沢、森などが主となって白柄組を結成した。幕府の治世も漸く地につき、世は泰平ムードに満ちていた。建幕の功労者、直参旗本も次第に疎んじられ、目的を失った彼らは至るところで大名と衝突した。白柄組の悪名は日に日を追って高くなった。播磨はこれを憂い、自分がこれを抑えなくては、という考えで白柄組の頭領となった。しかし、播磨でもこの流れを止めることはできなかった。そんな流れのうちに旗本の理解者、彦左衛門が亡くなった。通夜の帰途、白柄組と加賀守の大行列は偶然に出逢った。播磨の制止も聞かばこそ、両者は大乱闘を引き起した。加賀守は、島津藩、仙台藩と結んで白柄組員の引渡しを幕府に要求した。困り抜いた伊豆守は、加賀守の縁つづきの姫と播磨の結婚を策した。しかし播磨はこの解決策をけった。ために幕府は播磨に責任を押しつけた。そうとは知らないお菊は播磨の心情を疑い、青山家伝来の家宝の皿を割った。粗相で割らず、播磨の心情を疑って割ったとあっては、播磨も許せなかった。お菊を切り、自分は白柄組の責めを一身に負って腹を切る青山播磨であった。