昭和32年。大原組内紛による倉島市のやくざ抗争は、反主流派・三宅組長の射殺と、大原組長の逮捕で一応終止符を打った。三宅派の友安政市が組を解散後市会議員となってから市政の腐敗が目立ち、友安の可愛がる大阪の流れ者・川手勝美が組を結成して以来、大原組の留守を預る若衆頭・広谷賢次との小競合が頻繁に起こるようになった。昭和38年。倉島署、捜査二課の部長刑事・久能徳松は、暴力班のベテラン刑事として腕をふるっていたが、現在の警察機構では久能がどんなに実績をあげても、昇進試験にパスしない限り、警部補にはなれない。彼の10年先輩の吉浦部長刑事がそのいい見本であった。二人はそれぞれ、やくざを取締るにはやくざの分際まで落ちなければ職務を全うできないと心得ていた。久能は6年前、三宅組長を射殺した広谷の犯行を見逃してやって以来、二人は固い絆で結ばれている。今度も久能は友安が川手組の縄張り拡張のために職権乱用した事をつきとめ叩きつぶした。倉島地区の暴力取締り本部が再編成されることになり、県警本部から若手エリート警部補・海田昭一が赴任した。海田は、法に厳正、組織に忠実、やくざとの私的関係を断つ、と、三点をモットーに本部風を吹かせた。海田のやり方に反撥した吉浦は退職した。時同じくして久能は妻の玲子に離縁状を叩きつけられた。数日後、吉浦は川手組の顧問となり、久能は捜査班から遠ざけられた。翌日、大原組長出所祝いの花会で大原は再び逮捕され、組の解散を迫られた。これらは友安に買収された海田の描いた絵図だったが、追いつめられた広谷は久能を責めた。そして海田に反抗した久能は自宅待機を命ぜられた。一方、窮地に立たされた広谷は、吉浦をホテルに監禁し、海田と取引きした。これを無視した海田は、久能に広谷説得を要請した。自らの意志で広谷に接近した久能は、川手組の解散、広谷等の減刑、という条件で自首を納得させた。「花道じゃけん、カッコつけさせてくれ」と言って久能に手錠をはずさせた広谷は、突然海田の拳銃を奪うと車に飛び乗った。久能は腰の拳銃を抜きざま広谷の頭部を射った……。昭和40年。倉島署内の一派出所の巡査・久能徳松は、バイクで巡回中、接近して来た一台の乗用車にはねられ即死、交通事故として処理された。