【テーマよりスタイルを追求した、早過ぎた天才】東京都生まれ。父は洋画家・高橋虎之助、母はバイオリンの教師で、芸術環境に恵まれて育つ。1948年、東京大学文学部美学科に入学するが、難関だった松竹大船撮影所の助監督募集に合格して中退。川島雄三、木下惠介、渋谷実らや当時松竹と契約していた黒澤明の助監督を務める。有能な働きぶりと才気を見せ、黒澤からは厚い信頼を得たという。製作再開した日活に移籍し、56年、「狙われた男」で監督に昇格するはずが、次作の太陽族と呼ばれた若者たちの奔放な青春を描いた石原慎太郎脚本「狂った果実」が先に公開されてデビュー。ドライでスピードのある演出で新人・石原裕次郎をたちまちスターにし、経営難だった日活を破格の大成功に導く。同作は58年にフランスで上映され、後年フランソワ・トリュフォーは「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜の我々に良い刺激を与えてくれたのは確か」と語っている。センセーショナルなデビュー後も、日本では稀なスラップスティック・ギャグに徹した「牛乳屋フランキー」(56)、フランス恋愛映画のように洒落た「街燈」(57)、メカニックな描写に力を入れて迫力を生んだ「紅の翼」(58)など、題材に合わせて自由自在に演出スタイルを変え、都会的な感覚で料理。日活きってのテクニシャンとして大映の増村保造、東宝の岡本喜八、東映の沢島忠と並ぶ活躍を見せる。生涯のトレードマークとなるベレー帽を被り、舶来品を着こなすダンディズムと、テーマ主義の旧弊を否定した作風は一致していた。国民的大スターとなった裕次郎との「あいつと私」(61)は年間配収第3位で、自身の最大のヒットとなる。【エロティシズムへの傾倒と苦闘】『ルパン三世』の世界を先駆けたアクション・コメディ「危いことなら銭になる」(62)、吉永小百合の「泥だらけの純情」(63)と、キレのある演出であらゆるジャンルをこなすのが身上だったが、加賀まりこが初老のパトロンを持つ娘をコケティッシュに演じた「月曜日のユカ」(64)からは「猟人日記」「砂の上の植物群」(64)など、エロティシズムを独特に描く野心的な展開を見せる。66年より約2年間は香港のショウ・ブラザーズに招聘され、自作のリメイクなど数本の香港映画を監督。同世代のライバル監督に名声で勝てず生活が荒れた時期もあったというが、日活を離れた後の71年、私財を投じて中平プロダクションを設立し、状況劇場の磨赤児主演「闇の中の魑魅魍魎」(71)を発表。カンヌ映画祭出品作となった。中平プロ=ATG提携「変奏曲」(76)が最後の作品になる。病気で倒れた78年にはテレビドラマを病院から撮影所までタクシーで通って演出し、完成後に胃ガンで死去。