【松竹ヌーヴェル・ヴァーグの前衛芸術派】名は“きじゅう”と読まれることが多い。福井県で生まれ、戦後に東京へ移転する。高校時代からフランス語や詩・演劇脚本に取り組み東京大学に進学。本来は哲学科を志したが父の希望で仏文科に進んだという。監督デビュー後の1964年に女優・岡田茉莉子と結婚、公私にわたるパートナーとなった。松竹大船撮影所へは55年に入社、1年上に大島渚と山田洋次、2年上に篠田正浩がいた。助監督として大庭秀雄や木下惠介に師事する。60年、大島の台頭を追って助監督身分のまま「ろくでなし」で監督デビュー。続いて2本監督作を発表し、松竹ヌーヴェル・ヴァーグの一翼を担ったが、大島の退社を機に松竹は新路線から撤退、要注意視された吉田も木下組の助監督に戻されてしまった。しかし岡田茉莉子が企画した「秋津温泉」の監督に指名され、ここでようやく監督契約に至る。当作は高く評価されたものの、その後も社の姿勢とは折り合えず、「日本脱出」(64)の最終1巻まるごとカットという事件で松竹を退社、独立プロの「水で書かれた物語」(65)であらためて注目されたのち、66年に現代映画社を設立した。以後、「エロス+虐殺」(70)、「戒厳令」(73)など意欲作を発表したが、70年代後半はテレビドキュメンタリー等の活動に移り、86年の「人間の約束」が13年ぶりの劇映画となる。88年「嵐が丘」ののちにもビデオによる映画論に取り組むなど空白期があり、2003年公開の「鏡の女たち」は15年ぶりの劇映画最新作であった。同年、フランス政府より芸術文芸勲章オフィシエ賞を贈られる。【水と鏡で光と人を映し出す】主に自作・共作のオリジナル脚本で撮り、作家主義を貫こうと戦い続けてきた監督である。「ろくでなし」に代表される最初期は松竹ヌーヴェル・ヴァーグらしく社会に反抗的な作風で、「秋津温泉」以降はエロスとタナトスを映像美で抽出することに傾倒していく。その多くで露出オーバーのモノクロ映像が用いられ、時間や空間まで跳び越える構成・文体は時に難解と評される。あるいは「告白的女優論」(71)のように観念的と言われることもあるが、日本の前衛芸術の到達点を「エロス+虐殺」にみる評価は揺るがない。水、鏡、裏切りといった作家的モチーフが全体に貫かれ、ドキュメンタリー作品でも“見る/見られる”といったまなざしのモチーフを軸とする。ビデオ作品『吉田喜重が語る小津さんの映画』(94)や著書『小津安二郎の反映画』(98、芸術選奨文部大臣賞)でも示されるように、小津の批判者であり良き理解者でもあった。2022年12月8日、東京都渋谷区の病院において肺炎のため逝去。享年89歳。