鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)の生まれ。本名・新藤信子。大阪の魚問屋の長男と鳥取県米子出身の芸者の間に生まれる。2歳の時に大阪で饅頭屋を営む加治千太郎と坂東澄栄夫婦の養女となり、養母方の坂東姓となる。間もなく一家で兵庫県武庫郡本匠村(現・神戸市東灘区)に移転。生みの母の顔を知らずに育つが大事にされ、小学校の時から日舞を習い、養父の姉には宝塚少女歌劇へよく連れて行ってもらう。近所でも評判の美少女になり、周囲の勧めもあって1937 年、宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)を受験し合格。予科生として入校する際に養父方の姓に変え、本名・加治信子となる。39 年に卒業、芸名を乙羽信子とし端役で初舞台を踏む。終戦後の45 年9月、劇場公演再開。その第1作『勘平の死』で男役のトップスター・春日野八千代の相手役に抜擢される。“ 宝塚の至宝” とも呼ばれた春日野とのコンビは大評判をとり、淡島千景と覇を競う娘役スターとなって宝塚の戦後第1期黄金時代を築く。人気絶頂の49 年、大映の企画本部長・松山英夫から映画への誘いを受ける。宝塚の猛反対で一旦話は流れるが、大阪松竹歌劇団から京マチ子を引き抜いた実績を持つ松山の交渉は続き、自身にも宝塚の月給では空襲で焼け出された家族を養えない事情と演技への意欲があり、50 年8月、辞表を提出。歌劇団と大映のトップ会談のすえ円満退団が決定、2年間の専属契約を交わし10 月1日付で大映入社。映画第1作は木村恵吾監督「処女峰」50 で、三人姉妹の控えめな次女役。脚本は新藤兼人で、吉村公三郎監督らと松竹を脱け独立プロ・近代映画協会を興すも製作のメドがつかず、新進脚本家の才を惜しんだ松山英夫の誘いで大映と契約していた頃だった。宝塚トップスターの大映移籍は大きな話題となり、大映もまた“100 万ドルのえくぼ” のキャッチフレーズで大々的に売り出すが、作品はメロドラマの助演が続く。溝口健二監督「お遊さま」51 で田中絹代の妹役を任されるも、力を発揮しきれずに終わる。会社が望むイメージと自身の考える女優像とのギャップに悩んでいた頃、新藤が松竹時代から温め、反対を押し切って自らの監督で準備中のシナリオを読んで感動、会社に妻役の出演を直訴する。それが「愛妻物語」で、脚本家の卵の夫を明るく支え結核のため死んでいく妻のモデルは、新藤の死別した最初の妻・孝子だった。新藤は元宝塚ガールの出演希望に当初は戸惑うが、スター臭を捨てた演技と人柄をすぐに信頼、誰にも演出させたくないと粘った亡妻の像を、乙羽を通して渾身込めて描く。51 年に公開された「愛妻物語」は周囲の予想を上回るヒット、同年の新藤脚本・吉村公三郎監督「源氏物語」51 でも好演し、ようやく娘役からの脱皮の手応えを掴む。52 年、新藤の近代映画協会が「原爆の子」で第1 回自主製作に乗り出すのを知り、会社が渋るのを振り切って出演を決める。原爆の被害をいち早く伝える、アメリカ占領下の当時においては極めて真摯かつデリケートなテーマの作品で、広島市内の安宿に全員合宿しながらの撮影を敢行。創造的な集団作業に深い喜びを見出し、新藤への尊敬と同志的な感情はやがて公私を超えたものになる。同年、大映との再契約を断り、近代映画協会へ同人として正式参加。大手の大映から独立プロへの無謀に近い転身は経済的安定を望んでいた養母・澄栄の期待を裏切り、修復できない溝を生む。また、再婚していた新藤との不倫関係は芸能記者に詮索されるところとなるが、新藤の「縮図」53 で泥にまみれていく芸者の半生を捨て身で演じ、ブルーリボン主演女優賞。演技派女優として飛躍することで決断の答えを出し、専属契約制に縛られていた各社の俳優達に刺激を与える。汚れ役は白痴の娼婦を演じた「どぶ」54、貧しさのあまり強盗を企てる「狼」55 と続き、虐げられた立場の人間の尊厳をリアリズムで一途に追及する新藤・乙羽コンビの諸作は、戦後日本映画の高揚期に重要な位置を占める。しかし興行的には不評が続いて近代映画協会の経営は苦しく、以降は協会に籍を置いたまま他社での仕事を余儀なくされる。美人スターとしての人気はすでに失われた逆境期だったが、稲垣浩監督「太夫(こったい)さんより・女体は哀しく」57 の太夫役は評価を集める。59 年には連続ホームドラマのパターンを作った日本テレビ『ママちょっと来て』がスタート、ママ役で新しい支持を得る。近代映画協会解散の瀬戸際にあった60 年夏、瀬戸内海の島で「裸の島」を撮影。製作費は通常の10 分の1、プロのキャストは殿山泰司とふたりのみで、セリフなしにただ労働する一家を描く作品。炎天下にノーメイクでひたすら天秤を担いで水桶を運び続け、カメラの前で無心の姿を見せる。モスクワ映画祭の上映では、殿山と乙羽は存在感のあるアマチュアと称賛されたという。作品は同映画祭でグランプリを受賞、世界64 ヶ国にセールスが決まる大成功となり、息を吹き返した近代映画協会で新藤のもと、遭難した漁師の飢餓を描く「人間」62、病気の子のためなりふり構わず体を売る「母」63、中世を舞台に嫁と姑の剥き出しの葛藤を描いた「鬼婆」64 などの主演を続ける。「裸の島」以降の連作はそれ以前の社会派的アプローチからさらに人間の生き物としての内側、生・性の本能を突き詰めていったもの。乙羽の「あけっぴろげ」(新藤)な人柄と役を掴む時には一転して粘り強く打ち込む人間性は、新藤の創作意欲を駆り立てる触媒の役割を果たす。同時にそれは、長年の不倫関係に罪の意識を抱きながら結びつきあう互いの緊張の所産でもあった。一方、東宝傍系の東京映画や松竹などの多くの作品で助演。木下惠介監督「香華」64 では娘(岡田茉莉子)の幸せを顧みず享楽三昧に生きてみせる母親役が評判となる。TBS『ありがとう』70 でも人柄が伝わる存在感で脇を固め、ドラマの大ヒットに貢献する。気のいい中年女性というステレオタイプの役柄ならば肩の力を抜いて要求通りに演じ、その上で人物に活き活きとした血を通わせる名脇役女優となって、テレビドラマ、70 年代から本格的に出演した商業演劇の舞台で息の長い活動を続ける。新藤作品でも「竹山ひとり旅」77 の高橋竹山(林隆三)を叱咤する旅芸人の母役を力演。78 年、72 年に離婚していた新藤と結婚。77 年に亡くなった先妻への申し訳なさから悩んだが、新藤のふたりの子供の理解もあり入籍を決める。ただし蓼科高原の山荘で過ごす以外はこれまで通り別居を通す。結婚後の第1作「絞殺」79 では過保護に育てた息子の家庭内暴力に怯える、「竹山ひとり旅」とは真逆の母親役を演じ、ヴェネツィア国際映画祭最優秀主演女優賞を受賞する。83年、橋田壽賀子脚本のNHK 連続テレビ小説『おしん』に小林綾子・田中裕子の後を受けたおしんの壮年役で主演。貧農から奉公に出された少女期の辛抱のエピソードが貧しい時代を知る視聴者の涙を絞り、空前のブーム(平均視聴率52.6%)を呼んだドラマだったが、スーパー経営者にのしあがった姿まであえて描くことで高度経済成長の歩みを問い直す、そのテーマを重みのある演技で体現する。以降も新藤作品「地平線」84、「落葉樹」86 などや舞台で存在感を見せ、89 年、紫綬褒章と菊田一夫演劇賞を受賞。93 年、肝臓がんが発見。余命1年あまりと告知された新藤が急遽準備したのが「午後の遺言状」で、避暑に来た大女優(杉村春子)と心通わせる別荘管理の農婦を演じる。新藤は余命のことは知らさなかったが、本人も暗黙で承知していたと周囲は述懐している。ロケ地は蓼科の山荘で、担当医が待機し点滴治療を受けるなか気力で役を演じ切る。クランクアップの3ヶ月後、94 年の12 月22 日、肝臓がんによる肝不全のため死去。生涯をかけて尽くし、また支え合った新藤とは「先生」「乙羽さん」と最後まで一線を引いて呼び合う律儀さを通した。「午後の遺言状」95の5年後、生前のフィルムが新藤の「三文役者」00 に効果的に使われ、これが記録上の遺作となる。