【日本の戦後を暴力描写で総括したエース】茨城県生まれ。五人きょうだいの末っ子。水戸中学3年の時に工場へ勤労動員、米軍の艦砲射撃に「気が狂いそう」なほど怯えながら戦闘機の機関銃を作る。戦後、学業の意欲が湧かず鬱屈する時期に映画と出会い、1949年に日本大学芸術学部映画科へ。ロッセリーニの焼跡リアリズムに大きな衝撃を受ける。53年に東映入社。事務職が苦痛で現場を志願、翌年、東京撮影所助監督部に。40本近い現場で働くが巨匠の作品に付けず、メーデーに参加しても面白くなく、やはり鬱屈の日々だったという。61年、ニュー東映の中篇「風来坊探偵・赤い谷の惨劇」を撮る。デビュー後もしばらく身が入らなかったが、東撮に移籍して来た石井輝男の活躍に刺激を受ける。「誇り高き挑戦」(62)、「ジャコ萬と鉄」(64)と次第に手応えを?み、スラム育ちの三兄弟が憎み合う「狼と豚と人間」(64)を監督。これが会社を怒らせ、一年以上干される。この間に女優の中原早苗と結婚。東映と本数契約になった復帰後は、東撮で鶴田浩二主演の現代任侠物を手掛け、松竹で「黒蜥蜴」「恐喝こそわが人生」(68)などを撮る。舛田利雄に請われて協力した「トラ・トラ・トラ!」(70)のギャラで原作権を買い、独立プロ作品「軍旗はためく下に」(72)を監督。戦争の風化で弱者の声が抹殺される怒りを初めて存分に描き、高く評価される。任侠美学が理解できず東映の本流に乗れずにいたが、「一番悪い奴が主人公」という狙いと、任侠路線の次を模索する会社の方針がようやく一致。菅原文太主演「現代やくざ・人斬り与太」(72)が、大きな路線転換の起爆剤となる。【アクションといえば深作、最後まで疾走】実録路線の頂点は、広島やくざ抗争20年の記録を暴力による戦後史と捉えた「仁義なき戦い」(73~74)5部作。沈滞していた日本映画全体を活気づける大ヒットとなり、勢いに乗って新シリーズや「仁義の墓場」「県警対組織暴力」(75)などを連発。一躍カリスマ監督となる。以降は押しも押されぬ大家として「柳生一族の陰謀」(78)、「復活の日」(80)、「蒲田行進曲」(82)、「里見八犬伝」(83)、「火宅の人」(86)などを発表。どんな題材にも躍動感を注ぎ込むスタミナで、幅広い層の観客を呼ぶ。90年代に入ると野良犬アクション「いつかギラギラする日」(92)、落伍者の立場から描く「忠臣蔵外伝・四谷怪談」(94)で原点回帰の姿勢を見せる。珍しく劇中に死者の出ない文芸ドラマ「おもちゃ」(99)の次作は、中学生が殺し合う近未来バイオレンス「バトル・ロワイアル」(00)で、物議を醸しながら大ヒット。前立腺がんであることを公表して続編に臨むが、クランクイン直後に入院、2003年1月に死去。続編「バトル・ロワイアルII【鎮魂歌】」は息子の健太が引き継いで完成させた。