男性      女性

※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。

NEWS

KINENOTE公式Twitter

ダーレン・アロノフスキー

  • Darren Aronofsky
  • 監督/脚本/製作/プロデューサー
本名
出身地 ニューヨーク州ブルックリン
生年月日 1969/02/12
没年月日

関連作を買う

関連作を買う

略歴

【ソリッドに、叙情的に、空白を埋める幻想を追い求め】アメリカ、ニューヨーク州ブルックリンにてユダヤの家系に生まれる。教師の両親のもとコニーアイランドで育ち、「時計じかけのオレンジ」「イレイザーヘッド」などパンク映画に影響を受けたという。飛び級によってハーバード大学へ進学、実写映画とアニメーションを学んだ。卒業制作の短編は1991年の学生アカデミー賞に最終審査まで残り、94年にAFIの監督課程で美術修士号を取得する。96年より長編第一作「π」の製作に取りかかり、98年のサンダンス映画祭で監督賞を受賞。数学を題材に、アシッドな映像とシンセサイザー音楽を駆使した新感覚映画の「π」は、独立系の映画会社に買い上げられたうえ、さまざまな映画祭やメジャー新聞(のトップテン映画)に評価され、アロノフスキーの名を世界に知らしめることとなった。「π」ののちプロトゾア・ピクチャーズを設立、以後の自作を製作していく。第2作は2000年の「レクイエム・フォー・ドリーム」。麻薬やダイエットや恋愛といったものへの中毒症を描いた破滅劇で、世にセンセーショナルなインパクトを与え、主演女優がアカデミー賞などの候補になったことからアロノフスキーのもとにはメジャーからオファーが殺到。しかし、ブラッド・ピットの降板劇や「バットマン」企画の放棄などに見舞われ、第3作「ファウンテン・永遠につづく愛」が実現するのは06年のことだった。当作のヒロイン、レイチェル・ワイズとは男児をもうけるロマンスに発展したものの、成績のほうは不興という失意の中、08年、起死回生の「レスラー」を送りだす。同じく低迷にあったミッキー・ロークを主演に据えた本作によりヴェネチア映画祭金獅子賞を獲得、ロークともに高い再評価を受けた。【メジャーの荒波を乗り越える】インディペンデントの小品によって一気に世界へ躍り出て、そのままメジャーに駆け上ったアメリカン・ドリームの伝統を受け継ぐ。ただし出発点はジャンル系の作品ながら独自の映像感覚にこだわる作家映画であり、均質化の中での個性を強いるハリウッドの体質と折り合いがつきにくかったとみられる。アシッド系の感性を駆使し衝撃を与えた「π」「レクイエム・フォー・ドリーム」の成功に対し、難産のメジャー作「ファウンテン」は不発に終わってそのまま消えゆく可能性も大きかった。しかし自身の状況と主演者ロークの半生を鏡映しにし、正統派のドラマ作りに挑んだ「レスラー」で起死回生の復活を果たす。「π」から「レスラー」まで一連の作品で描かれるのは、内在する空白を埋めるための幻想を追い求める人々の姿。「レクイエム・フォー・ドリーム」では麻薬やダイエットに頼り、「ファウンテン」は病妻のため不死の泉を探し、「レスラー」は過去の栄光に生き場所を求める。彼らの欲望は一般的な幸福に結び付かないものの、それはきわめて普遍的な人生の欲望と美しい結末であり、同時にスタンダードな手法で描き得る題材であるため、アロノフスキーの復活と次段階への挑戦は約束されていた。

キネマ旬報の記事

2023年4月下旬特別号

「ザ・ホエール」:インタビュー ダーレン・アロノフスキー[監督]

2014年6月下旬号

【巻頭特集】「ノア 約束の舟」とほんとうの【旧約聖書/創世記】:インタビュー ダーレン・アロノフスキー(監督)

2012年2月下旬決算特別号

2011年 第85回 キネマ旬報ベスト・テン&個人賞発表:[個人賞カラーグラビア]読者選出外国映画監督賞 ダーレン・アロノフスキー

2011年5月下旬号

特集「ブラック・スワン」:ダーレン・アロノフスキー監督、ナタリー・ポートマン、ヴァンサン・カッセルが語る「ブラック・スワン」の世界

2009年6月下旬号

「レスラー」:ダーレン・アロノフスキー監督インタビュー

2007年7月下旬号

INTERVIEW キネ旬インタビュー:ダーレン・アロノフスキー

2003年3月上旬号

特集 「ビロウ」:ダーレン・アロノフスキーとは

2001年7月上旬号

作品特集 「レクイエム・フォー・ドリーム」:ダーレン・アロノフスキー監督 インタビュー

作品特集 「レクイエム・フォー・ドリーム」:アロノフスキーこれからの可能性

1999年7月下旬号

巻頭特集 ポスト・タランティーノ世代の映画監督たち:ダーレン・アロノフスキー インタビュー

1959年2月上旬特別号

特別グラビア 映画のファクター:大映洋画部の人々