【戦後、大映時代劇の重鎮として活躍】愛媛県松山市の生まれ。父の仕事の関係で幼いころに九州の八幡に移る。八幡中学に入学するが、3年のとき愛媛県に戻り、松山高等学校を卒業、33年に京都大学文学部を卒業。同年、日活太秦撮影所に入社する。助監督部は定員オーバーで脚本部にまわされる1934年8月、製作部長の永田雅一が、伊藤大輔、溝口健二らを引き連れて退社し第一映画社を創立、松竹傘下に入る。このときに森も同行する。ここで助監督に転じ、伊藤の専属となり「建設の人々」「お六櫛」などにつく。36年9月、第一映画社は解散、師の伊藤とともに新興キネマに入る。同年「仇討膝栗毛」で監督デビュー。月田一郎、森静子主演の時代劇だが、以降、新興で、「岡野金右衛門」(37)、「宮本武蔵」(38)、「鬼あざみ」(39)、「近藤勇」(40)、「大村益次郎」(42)などの時代劇を撮り続ける。同年、大映に移籍、大阪商人のど根性を描いた「大阪商人」を撮って陸軍に応召し、中国大陸に渡る。戦後、大映に復職し「婦人警察官」(47)、「わたしの名は情婦」(49)などの現代劇を撮る。まもなく本領を発揮する時代劇に戻り、52年に黒澤明脚本の「決闘鍵屋の辻」(東宝)で、荒木又右衛門の決闘を徹底したリアリズムで描いた。57年には再び黒澤の脚本で「敵中横断三百里」を壮大なスケールで撮っている。【大映時代劇の名作を発表】59年には、市川雷蔵と勝新太郎で「薄桜記」を撮る。妻を犯された男の復讐物語で、その華麗なカメラワークと重厚な演出で描いた正統派時代劇の極致である。そして、勝新太郎の「不知火検校」(60)では二枚目スターの勝を坊主頭の悪党に仕立て上げて新境地を開かせ、代表作“座頭市”シリーズへとつなげさせたのである。以降は、大映のメイン監督として、勝の「悪名」「座頭市」「兵隊やくざ」シリーズ、雷蔵の「忍びの者」「陸軍中野学校」シリーズなど、大映の2枚看板の名物シリーズを撮り続ける。その間の67年には雷蔵で「ある殺し屋」を撮る。一見平凡な小料理屋の板前が実は凄腕の殺し屋だったという、意外性のある緊迫感たっぷりな作品である。71年、大映倒産後は活躍の場をテレビに求め、映画と同じ格調の高い時代劇を撮り続けた。戦中・戦後にわたって大映時代劇を支え、100本以上の作品を撮り、多くの秀作を残したことは特筆に価する。