【戦前・戦後を駆け抜けた時代劇映画の巨匠】東京都生まれ。父・留次郎は関西新派の俳優・東明二郎で、7歳の時から舞台に立つ。独学で読み書きを学び戯曲を書き出し、父との旅公演について回る。17歳で日活の俳優となり、溝口健二の「夜」(23)などでは父子共演するが、本人は監督を志望し、伊藤大輔「日輪」(26)では父が主演、浩が助監督を務め、衣笠貞之助の「十字路」(28)でチーフ助監督となる。同年、伊丹万作とともに新設された片岡千恵蔵プロに入り、「天下太平記」(28)で監督デビュー、軽妙な演出が高く評価される。「放浪三昧」(28)、「絵本武者修業」(29)、「元禄十三年」(31)などで明朗時代劇として話題となる。さらに「瞼の母」「一本刀土俵入り」(31)、「弥太郎笠」(32)、「関の弥太ッぺ」(35)などを撮り、その後何度もリメイクされる股旅映画の原点となるスタイルを完成させた。その間、「時代の驕児」(32)、稲垣初のトーキーにしてオペレッタ風の時代劇「旅は青空」(32)を撮る。34年には脚本家集団の鳴滝組・梶原金八に参加、時代劇に現代劇感覚を盛り込もうという新風を巻き起こす。35年には大河内傳次郎と「新撰組」で初めて組み、以後「富士の白雪」「大菩薩峠」(35)、「小市丹兵衛・追ひつ追はれつの巻」(37)などを発表。一方、千恵蔵とは千恵プロを解散した後も、「曠原の魂」(37)、「宮本武蔵」(40)などのコンビ作を撮る。「海を渡る祭礼」「江戸最後の日」(41)、「無法松の一生」(43)では、時局に合わないとして、軍人の未亡人が車夫に愛を告白する部分がカットされた。【時代劇映画の巨匠として】戦後は「最後の攘夷党」(45)、「おかぐら兄弟」(46)でいち早く仕事をスタートし、伊丹万作が遺したシナリオ「手をつなぐ子等」(48)、そして「忘れられた子等」(49)で貧しい子供たちを描いて秀作とする。50年に大谷友衛門主演で「佐々木小次郎」3部作をヒットさせ、三船敏郎主演の「宮本武蔵」3部作(54~56)は第1部がアカデミー賞外国語映画賞を受賞。時代劇作家としての本領を発揮する。58年には念願の「無法松の一生」をリメイク、戦前版でカットされた箇所を復刻して、ヴェネチア映画祭でグランプリを獲得する。東宝1000本記念作品「日本誕生」(59)では円谷英二の特撮を用いて大ヒットさせ、以降も、東宝オールスターの「忠臣蔵/花の巻・雪の巻」(62)、「佐々木小次郎」(67)、69年最大のヒット作となった「風林火山」を撮った。そして三船プロが、三船敏郎、石原裕次郎、中村錦之助、勝新太郎共演による「待ち伏せ」(70)を製作。この映画黄金時代のオールスターによる作品が、時代劇監督・稲垣の遺作となった。