魚津恭太と小坂乙彦は元日の明け方前穂高の北壁にしがみついて吹雪と闘っていた。あと十米ほどで岩場がつきるという時、猛然と谷間から雪が吹き上げ、二人を結びつけていたナイロン・ザイルが切れ、小坂の体は転落して行った。どうしてザイルは切れたのか--間もなくナイロン・ザイルの衝撃実験が八代教之助の手によって行なわれた。教之助は、皮肉にも死んだ小坂が命をかけて慕い、そして過去に一度だけ関係のあった八代美那子の夫だった。実験の結果、ザイルは切れなかった。問題になったザイルは魚津が勤めている新東亜商事の兄弟会社の製品であったため、彼の立場は更に苦境へと追いこまれた。が、小坂の死が他殺か自殺かと騒然たる世論の中で、終始魚津を理解しつづけたのは支社長の常盤だった。魚津は美那子を無責任なスキャンダルの渦から救おうとしていたが、今では小坂と同様に美那子を慕う自分を知った。一度断念された小坂の死体捜索が再開され、それには小坂の妹かおるも加わった。発見された死体にザイルはきちんと結ばれていた。遺体を焼いた翌日の夜、かおるは魚津に結婚してほしいと打ち明けた。兄を焼く火の色が彼女を真剣な思いに導いたのだ。愛してはいけない美那子への思慕を清算し、かおると結婚しようという意志を固めるため、魚津は飛騨側から前穂の単独登攀を試みた。そして、かおるとは徳沢小屋で落ち合い一緒に帰京して結婚することを約束した。ガスが濃く流れて視界がよくきかない岩壁を進む魚津の耳に地鳴りのような重苦しい音が重なり合い、次第に轟々たる響きになって追って来た--。徳沢小屋では、明日会える魚津が登りつつある前穂の峰を、かおるが静かに見つめていた。その峰の姿は無気味な肌色をみせて妙に明るい空にそそり立っていた。--魚津の到着の時刻になっても彼は現れなかった。捜索隊が出され、かおるは再び愛する人の遺骨を胸に、故郷へ帰らねばならなかった。美那子は駅へ彼女を送った。かおるは冷く澄んだ何かにつかれたような表情をしていた。美那子は自分の敗北とでもいうようなものを感じた。かおるの汽車は西へ去り、美那子は居合わせた常盤に挨拶をし、駅を出て行った。--再び、空虚な家庭へかえるために。