昭和三十五年某日、「星条旗紙」に奇妙な広告が掲載された。〈米軍将兵に告ぐ。米兵士アレン大尉はキャンプ地座間から別府までの千三百余キロを二週間で歩いてみせる。いくらでもよいからこれに賭けて欲しい。もし成功すれば賭け金は別府の孤児院白菊寮へ寄付する〉フリーの報道カメラマン北林宏はその広告を見て、激しい怒りを覚えた。昭和二十七年、朝鮮戦争の取材に現地に飛んだ北林はその最前戦で北戦ゲリラと誤って子供づれの市民夫妻を射殺したアレン大尉を目撃してたのだ。一瞬のうちに父母を失った幼児の悲鳴にも似た泣声は、八年を経た現在も北林の耳の底に残っていた。北林はアレンに、無慈悲に孤児を作った人間が、孤児のためと称して慈善事業をやるのは大変な矛盾だと、歩くことを中止するよう迫ったが、アレンはやめようとはしなかった。好奇心からこの強行軍に参加したパーマー伍長は何度も脱落しそうになるが、そのたびにアレンの激励をうけ、立ち直った。一方、北林は別府へ先まわりし、白菊寮を訪ねた。園長の山田女史は、アレンとの出合いを北林に語った。朝鮮戦争が終り、別府に勤務したアレンはたびたび白菊寮を訪れた。そんなある日、アレンは子供たちに何か素晴らしいプレゼントをしたいと申し出た。一人の子供から「雨の洩らない鉄筋コンクリートの家が欲しい」と難題がぶつけられた。アレンは苦悩に満ちた表情で背を向けて去っていったという。数多のアクシデントを克服し、二兵士はついに壮挙を成しとげた。昭和三十六年春アレンの賭けの成功によって白菊寮改築工事が着手された。だが、その後の資金が続かず、まもなく工事は中断された。その年のクリスマスにアレンは歩いた。その翌年のクリスマスにも。しかし募金は集まらなかった。やがて、某新聞社のキャンペーンが功を奏し、工事は完成した。北林はベトナムの最前線で再会したアレンにそれを告げた。それから数日後、アレンはトラックを運転中、地雷にふれて戦死した。アレンを迎えるため大分空港に集まった子供たちに北林は言った。「君たちのサンタクロースはもう帰って来ません」子供たちの間から嗚咽がもれた。北林は歩くことにした。かつてアレンが歩いたその道を。