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池松壮亮と満島真之介と大倉幸二が、ダンゴムシのように丸まって転げたりするさまは悪くないが、彼らが尾崎豊やブラッド・ピットや坂本龍馬になりきるというのが、単に、そう名乗っているという以上の具体性がないから、物語を動かす要因にならない。つまり、映画以前の設定にとどまっている。となると、あとはバカな三人組が、ヒメと崇めるソンことキム・コッピを隠れて覗き見ているというだけ。YOUと向井理の借金取り立てコンビが登場してからのドタバタで、一応形にはなるが。
縄文の土器や土偶は、確かに不思議だ。なんで、あんな形をしているのか、なんで、あんなにデコラティブなのか、それ自体の奇妙な面白さと同時に、何故、なんの目的で、このような形にしたのかと考え出すとキリもない。弥生の土器が、機能に合わせてシンプルになっているので、なおさら縄文が不思議に思える。だから、多くの人がハマるのだろう。この映画は、そのような人たちの見解を紹介するのだが、それで納得するというより、夥しい発掘物を見せることで、見る者を縄文へと誘う。
南沙良演じる志乃は吃音で、他人を前にすると名前を言えないが、心を開いた相手とだったら、歌もよどみなく歌える。一方、蒔田彩珠扮する岡崎は、ミュージシャンを目指しながらも、歌は音程が外れてしまう。そんな二人が、勇気を出して橋の上で歌うシーンがいい。そこに、コンプレックスから道化を演じる菊地(萩原利久)が介入したことで、志乃と岡崎の繋がりも壊れていくという展開も自然。そして何よりもいいのは、結末部分をなす学園祭で、ありがちな復活劇にしなかった点だ。
人は必ず死ぬ。若くて元気なうちは他人事だろうが、老いて病を得れば必ず直面する現実だ。アルツハイマーの母の介護をしているうちに、ご自身も股関節手術をした関口監督は、死を身近に感じ、外国にも行き、死の迎え方、選び方を探っていく。その中で興味深いのは、スイスの医師が進めている「自死幇助」という試みだ。安楽死が医師の判断で行われるに対し、こちらは自分の意志により選べるからだが、それらの研究も含め、死を視野に取り込んだ介護を描いた本作の意義は大きい。
池松が女の髪をむさぼり始めた瞬間に既視感。そうか「スイートプールサイド」の監督だ。あれ同様ヘンタイさんは美しいという物語ではない。総括的に述べると「愛とは一方通行なんだ」ということ、もっともそれは始まりでも終わりでもない。ただの真理である。報われない愛を見守り活動に発散させる三人が出発点で、石野真子のシングルにこんな三銃士を歌ったものがあるのも思い出したが、世代が違う。これは終わりが始まりだという映画、それを二種類のエンディングが鮮やかに示す。
岡本太郎による縄文美の発見といった歴史的エポックは頭に入っていたが、そういう豆知識の集積とは微妙に次元が違う作品、つまりこれは知じゃなく愛の映画。題名で分かるように縄文文化、端的に言えば土器の奇妙奇天烈さに囚われてしまった人々に監督が驚嘆するコンセプトである。現代人がシビれるのはその過剰な装飾性にあるが、それが普遍性を乗り越え「私にしか分かるまい」という特異性として表れる不思議。マユツバな意見や学説もある気がするが逆に言うとそこが最も面白い。
ハッピーエンドだが、もっとストレートなハッピーエンドでも良かったのに、と思った。このへんが評価の分かれ目だろう。それぞれに弱点のある二人が一緒に文化祭ライブを目指す。結成されるのはアコギ系デュオ。懐かしめのフォークも出てきて私みたいな者にはそっちの方が嬉しかったりする。それで問題のライブだがネタバレ厳禁の法則故に詳しく書けない。ただしクライマックスが二つある不思議な作り。弱点も二つあるわけだからそうなんだよな、と納得する。来年は三人でやろうね。
シリーズ最終章ということで母親の認知症の病歴等は最小限にして、今回は監督自身も含め、人の晩年というか「差し迫った死」をどう迎えるかにテーマが広げられている。言うまでもないが「自身も」というのが鍵だ。ただ私的ドキュメンタリー映画の方法論にありがちな自閉性は一切なく、あくまで監督(取材者)の軽いフットワークを楽しめる。自身の死に方を選択するという際どい問題にも踏み込んでおり、そのおかげでヨーロッパの介護現場の諸事情など、思いがけない知見も得られた。
ストーカー歴10年の男たちが著名なキャラになりきって、キム・コッピの部屋の向かいのアパートで共同生活しながら監視しているという設定だけの映画なので、舞台でやれば俳優の熱量で引っ張れる要素があるにしても、映画では失速していく。一見すると主人公たちは狂人じみているが言動は至って常識的で、一部にでも狂気や異様な執着を感じさせる瞬間があれば良いが、設定しかないので、結局は何故こんなことをしているのか分からず、なりきりキャラも活かされているとは思えず。
学術的な視点も胡散臭い方面も分け隔てなく縄文で結ぶことで何とも奇妙な魅力を放つ熱に浮かされた人々を映し出す。冷笑的にならず、監督自身もハマっていくことで、映画自体も客観性を失っていくのが良い。その言動の虚実を疑いたくなるほど虚構的な人物が登場したかと思うと、統合失調症になった前夫の話を始める人もいて、縄文ではなく、そこに至るまでの話をもっと聞いていたくなる。このノリで〈映画にハマる人々〉も観たいが、こんな陽気にはならず陰惨なものになるだろう。
吃音症とコンプレックスを抱える同級生が意気投合して音楽を始めるありきたりな話かと思いきや、『金閣寺』の主人公と同じく幸福の象徴を壊しにかかるのが良い。「リンダリンダリンダ」でライブをしないで終わる構想があったようだが形を変えて実現したと言うべきか。主人公も友人も鬱屈や卑屈さが無く、教師たちの無神経さも類型的。美しい背景と光線を映えさせた画面は綺麗とは思うもののそこに依拠し過ぎではないか。吃音を描くといっても対話のリズムは緩急をつけられるはず。
シリーズを通して観ているとドキッとさせられる題だが、テーマが〈死〉なのでファイナル。監督自身の全身麻酔手術から幕を開け、監督の母が机に突っ伏しているショットなど、不穏な気分をかき立てる瞬間が何度もあるが、誰もが確実に死へ近づいていることを実感させる。最期への選択肢が希望通り行くかどうか、次が観たくなる。1作目の頃は元気だった自分の父が今や歩くことも覚束ない老々介護を受ける身になっていることを思えば、作を重ねるごとに他人事ではなくなってきた。