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これ、映画ではなく、一幕物の舞台でやればいいのに。舞台なら、それぞれの役者の気というか、オーラのようなものも、よりリアルに体感できたはずだ。自殺したかつての仲間内のミューズに対する、各人の後ろめたい思いを語るという、ありがちな物語も、動きのない画面よりも、役者の生身の肉体を通して見た方が、ずっと迫力があっただろうに、惜しい。あと、借金取りに追われる男に、皆はあの場で金を渡したのかどうか、渡したとすれば、そんな大金を持っていたのか気になる。
タ、イ、ク、ツ、です。でも、ただの退屈とは、ちょっと違う。作り手は、見る者に、このプールサイドマンの毎日毎日、昼間の仕事も、終わってから寝るまでの時間も、まったく同じことの繰り返しに耐えられるかと突きつけているからだ。それは正直、なかなか辛い。だから、終始無言の主人公の周りに流れる、テロを伝えるニュースや、車に同乗した同僚の不平不満を口にする言葉に、耳を傾けることになる。そして、ある瞬間、画面一杯の魚や人の波の映像に不意を撃たれるのだ。
寺山修司の新宿には都電が走っていた。2丁目にはヌードスタジオがあり、歌舞伎町には、ヤクザも避ける愚連隊がいた。そして、それぞれの区画には見えない結界があった。いまじゃ、それらはすべて消え去り、新宿はフラットな街になった。3・11以後とはいえ、平板な街に荒野の風を吹かせるのは難しい。結果、ひょんなことでボクサーになる菅田将暉の新宿新次と、ヤン・イクチュンのバリカン建二の肉体を際立てるしかなかったということだ。その先は、後篇のお楽しみ。
済州島で釣り糸を垂れる市川(大森南朋)と大友(ビートたけし)とのやりとりが、市川の手下が殺される事件を挟んで反復され、その処理を巡って日本では、花田(ピエール瀧)と中田(塩見三省)、花田と西野(西田敏行)とで反復される。差異を含んだその反復の波が、花菱会と韓国人フィクサー・グループを巻き込み、全員暴走へと駆り立てる。本作は、究極のやくざ映画である『アウトレイジ』3部作の最終章に相応しい暴走の果てに、『ソナチネ』の悲哀が甦る。
タイトルは想像力を喚起するもので秀逸ではあるが、中身は尻すぼみ。作者がそう考えていたはずはないのに、やっぱり学生時代が一番輝いていた、という感じに見えてしまうのだ。虚言癖というのが鍵で、ただしそれを体現するキャラが一人だけ。この人が一人で悪者になった。フォローはあるのだが説得力はない。アルトマンにこんな雰囲気の作品があり、ヒントになっているのかな。現在の日本映画をしょって立つ脇役俳優陣総出演。それだけで十分楽しめるのだが、色々惜しい出来である。
どう考えても長いのだが長さに意味がある、と監督が決意の下、撮っていると分かる。特撮による「ぎっしり水上に詰め込まれた海水浴客」風景と、閑散とした室内プールの監視員の孤立とがコントラストを成し、日常即異常という現代感覚を醸し出す。そのまま使用されたニュースの音声を聞いていると、トランプさんは最初から異常な人だったとよく分かるが、私はヒラリーも嫌い、どっちもどっちか。これを見ると監督デビュー作「そして泥船はゆく」を見たくなるという消極的価値はある。
長さに怯んでしまい、見るのが遅れた。申し訳ない。これは長くて正解。二人のボクサーの日常を反映するリングネームの「まんま」感が映画世界を上手く構築し、次のオリンピック後の新宿がほとんど六〇年代、というのも可笑しい。寺山修司原作ですから。でもちゃんとテロとかはある、さすが二十一世紀。ここ数年でドローン映画、とでもいうべき作品が急増したが、これはその監視的性格がきちんと内容に組み込まれ前篇のハイライトになった。これには寺山さんもビックリでしょうな。
悲しいかな、このシリーズはどんどんダメになっていく。思えば主人公の情勢判断の甘さのせいで子分が死んだのに、その件は誰も口にしない。この兄貴は威張ってるだけだ。やくざの出所祝いの宴席を警察関係者が一人も監視していないのもヘン。そもそもこの襲撃には何の意味もない。こういう場面を撮りたかったからやった、という以上ではない。そうそうたるキャストを楽しめるというのはあるが、罵詈雑言アクションという当初のコンセプトは後退しており、わざわざ褒める点がないな。
贔屓筋の俳優を抱えるディケイドが企画と聞けば気になるが、学生時代の映画仲間が集まった一夜の話とは微温的。設定が同工異曲の「マジシャンズ」が全篇1カットで回想まで入れ込む凝った作りだったことを思えば、攻める映画に出る俳優たちが集まったわりに映画の作りは保守的に思える。40代前半という設定のはずだが、会話に出てくる映画に同時代(90年代初頭)のものは皆無。ビデオで観ていると言われたらそれまでだが。各々の演技の質は高いので、そこを堪能する分には満足。
主人公のミニマムな日常を丁寧に描くことで世界の歪みと苛立ちが浮かび上がる。テロのニュースが流れるだけで、声高に主張するわけでも、これ見よがしの描写があるわけでもなく、モノクロの静謐な画面で職場と映画館と自宅の往復しか描かれないが、緊張感が途切れず退屈しない。団地を舞台に日常と性を丹念に描き、最後に空港爆破へ向かう若松孝二の「テロルの季節」を想起させるが、若松が最後に事を達成させるのと違い、闘争ではない個的衝動を静かに醸成していく姿が胸を打つ。
原作からしてネルソン・オルグレンの『朝はもう来ない』の影響下にあり、寺山の監督作「ボクサー」にまで繋がっているだけに、今、映画にするなら解体と再構築が不可欠の原作に対し、五輪後の2021年の新宿を舞台にするアイデアが秀逸。テロとデモが渦巻き、現在の社会が抱える問題がいっそう拡大する時代は原作の60年代に拮抗する状況を生み出している。菅田、ヤンの攻めと受けの対照的な演技の配置も良く、振り込め詐欺、自殺中継など違和感なく馴染ませているのも好感触。
沖縄ではなく済州島で「ソナチネ」冒頭のナポレオンフィッシュを想起させるタチウオ釣りから幕を開けるのを眺めながら、同作が「その男、凶暴につき」の続篇的活劇として企画されたことへの4半世紀越しの回答になると予感。初期作以来の顔ぶれも次々に現れ、「ソナチネ」では屋外から閃光を見せたのみだった銃撃場面の屋内バージョンが本作の見せ場となり、娯楽性を帯びさせながら初期作への回帰を果たす。かつて謳われた『凶暴な男、ここに眠る。』の惹句は本作にこそ相応しい。