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佐藤寿保は、ジョルジュ・バタイユの正嫡なのか! なにしろ眼球に取り憑くのだから。ただ、眼球を狙うカメラというのは、どうなのか? それだけなら、両者は互いに互いの鏡として向き合うしかないのではないか。そこには絶対的というべき距離がある。距離を介さなければ見ることが不可能な眼球と、同じく、そうでなければ写せないカメラだから。その距離を超えるには、カメラを捨てて眼球を刳りぬくしかなく、事実、物語はそこに進むのだが、その先には、見られる映画という背理がある。
まず、顔である。監督自身が演じるスキンヘッドのゲス男の顔はそれ自体暴力的だが(笑)、リーゼント男やアイパッチの酒場マスターも、顔だけで独特の匂いを放つ。一方、芦川誠扮するヤクザには、ひたすら親を無視する息子に対して及び腰で接する平凡な父親という、従来のやくざ像に見られなかった面を付与し、酒場マスターには、妊娠中の女房に手を焼く一場を配するあたり、脇筋がよく練られているところに、シナリオ・監督の力量が感じられる。これであと10分程短ければね!
黒い暴動というから、ブラック・パンサーならぬブラック・ギャル(?)が叛乱でも起こすのかと期待したのだが、別にそんなことも起こらず、物語も、内灘の浜に埋めたタイムカプセルを掘り起こすという他愛ない展開なので、些か拍子抜け。ただ、いまや絶滅危惧種(!?)としても過去形のガングロギャルが、親や教師はもとより、男子一般にも媚びることなく、ギャル独自の世界を作っていたということがわかったのが、収穫か。ギャルはロックンロールだ、という思い入れだけじゃ、ちと弱いが。
チラシには、「人知れずDVD化された無名の自主制作&自主レーベル・アニメ」とあるが、これは、企業や製作委員会などの手にならない、インディーズによって作られたアニメ作品ということなのだろう。監督中心の独立した制作とはいえ、そこには協力を惜しまない独自のネットワークがあったはずだ。だが、それでもアニメーションの分野では、このような形が今後盛んになるだろうし、その先駆けとして、よく出来た作品ではある。とくに実写では困難な宇宙ステーションの映像には感心した。
この監督は会社の私の机で撮影したことがあるが、フィルモグラフィーを見てもどれだか分からない、残念。でもその机で佐川君の緊縛写真をチェックしたのを思い出した瞬間、富士の樹海に佇む妖鬼の如き彼の姿が画面に現れ、驚愕。さて「真昼の切り裂き魔」のラストは、ポラロイドカメラが映し出す都市風景の虚空だったが、これは三十数年後のその続篇という路線。あちらには鎖陰という物語が底流としてあったが、こちらは裂かれる眼球が主題。インスタレーション美術も秀逸で超推薦作。
確かにクズとゲスだがブスじゃない、念のため。無意味に過剰な暴力というのがキーとなっているが、無意味に徹するというほどではなく、クズ×ゲスのバトルは消化不良気味かも。脇のキャラクターにもリキが入っていて面白い。奥さんに頭が上がらないバーのマスターとか。北野武映画の常連、芦川誠の風俗経営やくざとか。彼の場合、一人息子が問題児になってしまっている。親父への不信が原因なのだがどうにもならない、という細部が効いている。無駄に長いのも味わいの一つであった。
ガングロギャル、という言葉ももはや死語。あのヒト達は何だったんだろう、と考えると奇妙な気分に襲われるが、これを見なさい。色々わかるから。いわゆる時代の閉塞感からの逃走ってことなのか。ただし、楽しめた割に星が伸びなかったのは現代篇がせちがらいせいだ。監督なりの批評意識がここに見られるのは分かるものの、過ぎたるは何とやらで、これじゃせっかくの暴動は結局、成就しなかったみたいじゃないか。もっと無責任に彼女達の黄金時代を寿いでくれても良かったのにね。
フルCGアニメで日常を描くのが新機軸なのかと数分間誤解していたが、そんなわきゃあない。堂々たる未来SFであった。両親を交通事故で失った少女が十九年後、その亡き母親に思いがけない場所で出会うことになる。隠すことでもない。実験用宇宙ステーションで出会う。これは栗栖直也流の「惑星ソラリス」へのオマージュ。だから、あるんだよちゃんと。無重力空間での人物の浮遊ショットが。タイトルは二人をつなぐ絆の子守歌の一節で、しみじみした好楽曲。やられた感メチャ高!
ピンク映画時代に比べれば近年の一般作は本領発揮とは思えなかった佐藤寿保だが、久々に濃密な世界を自由に回遊しているようで、この居心地が悪そうな世界を堪能する。眼球をめぐる抽象シーンの連続だが、眼球舐めをここまで官能的に撮れるのは今では寿保監督だけだろう。凡庸な監督ならイメージが持続せず直ぐに息切れしたと思えるようなステレオタイプな設定を前にしても、30年にわたって追求してきたレンズ・接写を通した世界を更に熟成させ、闇と光の中へと観る者を誘う。
下手な所があっても描きたいことが先に立って抑えきれない隔靴掻痒のもどかしがあるような映画が観たい。本作はまさに誰がどう撮っても綺麗に収まる時代に背を向けて、奥田庸介が商業映画から自主映画へ戻った意味を納得させる力作だ。主演も兼ねる監督自らの顔を徹底的に破壊して登場したことに驚くが、ナルシズム映画になっていない。異物としての自身をどう見せるかを冷静に判別する監督の目が失われてないからこそ、味わい深い面構えの人々が織りなす群像劇として突出する。
題名が良いし、田舎のガングロギャルの青春映画なんて題材も申し分ないので期待したが、いきなり14年後の現在に飛ぶので「ヱヴァQ」みたいな展開に戸惑う。その後も過去と現在を往復するが意味があるとも思えず、ブツ切れになって物語に没入できない。肝心の彼女たちの青春の〈無敵時代〉が疎かになり、クライマックスのフェスに凝縮していく作りになっていないので散漫な印象。「青春デンデケデケデケ」よろしくカメラ目線で話したり、映像加工を施すも小手先の使用にとどまる。
予備知識なく観たので、3DCGも見劣りしない全く普通の商業用アニメと思っていたら、ほぼ1人で作り上げた自主制作と知り驚く。宇宙ステーションなどのSFの装飾を剥ぎ取れば、母ものと言っては悪いが、古典的な母子の純愛劇である。この辺りは「ほしのこえ」と同様の接続手法だが、商業作なら臭みになっても、好んでそうした設定を用いた作家の色が出ているので不快にならずに観られる。もっとも、作り手も若い観客もこうした微温的なものを好む傾向には首を傾げるのだが。