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タイトルから、また、ガキの恋愛ものかと思ったら、まったく違って、かなり楽しめた。街角で待ち伏せして、吹越満扮するパパに迫る安藤輪子の暴走ぶりもさることながら、周囲の人物の相関関係が面白く描かれているからだ。とりわけ安藤の告白に呆れた岸井ゆきのの家庭、つまり母の石橋けいと吹越の三人が囲む食卓での離婚を巡るやりとりや、石橋と岸井の母子が、スーパーで夫及び父の愛人と出会うくだりなど大いに笑える。ただ、腹を刺した安藤が頭に包帯を巻いているのは、どうして?
ミュージシャンの活動を追った映画は色々あるが、あまり面白いものに出会ったことがない。なんか、そのミュージシャンに親しんできた人たちが、頷き合っているような閉ざされた印象が強いのだ。本作が、それらと決定的に違うかは微妙なところだが、一応楽しく見られた。それは、俳優としてのピエール瀧とは、まったく異なる彼のパフォーマンスが見られたこともあるが、それ以上に、これが彼らの活動を通して、一九九〇年代以降の日本のテクノ・ミュージックの歴史になっていたからだ。
面白い! と同時に、見終わったとき怒りがこみ上げてくる。集団的自衛権が憲法に違反するという以前に、暴力団対策法につぐ暴力団排除条例は、憲法14条が定める法の下の平等という原則を踏みにじっているからだ。ヤクザの子どもは、幼稚園にも入れず、給食費を納めるための銀行ローンも組めない。ここに出てくる組員が車の事故で保険を請求したら、詐欺未遂という名目で逮捕された。ヤクザに人権はないということだが、それがヤクザに留まらないことを、本作は暗示する。
まず、子どもたちのロードムービーとして徹底しているのがいい。神戸から福島、福島からバス、その先の立入制限地域には、地元の牛飼いのトラックに乗っていくまではともかく、そのあとの石井杏奈演じる朝海をはじめ、四人の子どもたちが、それぞれ思い思いの方向に駆けていき、渡辺大知の教師が追っていくという動きが生きているのだ。彼らの言葉にならない想いも、その動きを通して伝わってくる。朝海が、最初は拒絶していた神戸復興の歌を、最後に歌うのは物語の約束通りだが。
思わず何度も笑わされたがその可笑しさはおまけであって、うーん、そうなのかあ、とジワジワ驚かされるような、明るく澄んだ淵が予想以上にかなり深いことの、ヤバイ感。彼の画像を表示したスマホで自慰するほどに友だちの父親が好きだというメガネ娘を演じた安藤輪子が良かった。情けなくも怖いストーカー殺人者の金子岳憲ほか、役者が皆良い。ワンカットが長めなのも良い。もっと自分が若ければ気持ち悪さが先に立ったろう。今はこのイマドキでありながらの狂恋を楽しんだ。
電気の伝記。観る前からアガる。楽しく観る。私は九〇年代にファン。ずっと追いかけてたひとや影響されてテクノものを作ってる友人もいていろいろ教えてもらいつつ。『電気ビリビリ』のBPMと歌詞の変遷に並走した世代。だから本作データ面に関して驚きはない。卓球と瀧のインタビューがないのは、どうせやってもムダとか、感動ぽくなってもイヤ、とも思うが、やはり欠落だ。だが現在の卓球による『NO』をトリに配置することで、彼らと或る時代の青春を感じさせたことは良かった。
彼らは会長、ベテラン、見習い青年まで全員こちらの目を捉える引力がある。だがヤクザの人権という主題はもっと作り手側が出すべきではないか。ひとの側に立ち、国家に対するように。被写体に比してこの作品自体は描写するのみ。客観性か加担を怖れるのか、弱い。組事務所内部や何人かの構成員の暮らしを追い、興味を引き付けるだけの素材と取材映像はあるが、全体におっかなびっくりさが激しい。飛田とか新世界とか私は普通に歩いてたぞ。しかし観る価値あるドキュメンタリーだ。
余談。これを観てそこに含まれる音響としてSachiko Mの音を聴き、その特質自体は以前から知っているものであるけれど、科学を意識させるノイズ、というものははっきりと放射能のシンボルになるなーと気づいてビックリした。まあ、そういう音響を背景にもしながらこの映画は展開する。一色伸幸脚本の『ラジオ』というスゲー良いドラマがある(私は菊島隆三賞受賞記念上映の映写をやった)が、それも、本作も人を支える音楽(先述の音とはまた異なる)の力が描かれている。
一見シュールだが、その実、妙にリアルな市井の群像劇。不倫、愛人の妊娠、妻の病気、震災と離婚、娘の同棲に介護問題……。友だちのパパに恋する暴走娘のみならず、親も子も、どっちの世代もこの時代、生きてゆくのはなんとも大変。のほほんと描かれる、じっくり考えたら相当へヴィな修羅場の数々。抜き差しならない状況を、ギリギリの笑いですり抜ける山内ケンジの技量に感服。監督の語る、「若い女性と中年男のロミオとジュリエット」の意味が明かされるラストに愕然&ちょっと戦慄。
電気グルーヴの26年を、彼らの曲に乗せ、元メンバーや関係者へのインタビューとライブ映像をふんだんに織り交ぜつつ振り返る。現在の2人の証言はなく、カメラが捉える近影は今も変わらずくだらないことを言い合い戯れるオフショットで構成され、そのことが石野卓球とピエール瀧の、狂気と同義の(?)異能ぶりと、ある種の円熟を際立たせる。序盤で描かれる92~93年ごろ、彼らが連載していたサブカル誌編集部の末席に在籍していたこともあり、四半世紀の来し方がついつい重なった。
カメラが覗く大阪の「二代目東組二代目清勇会」事務所内は、思いの外整然としていて、本棚には服役中の癒しとなった犬や猫のほのぼのした書籍も。端正な風貌の組長、ヤクザとはどう考えても結び付かない「部屋住み」の地味な新入り青年、家庭を捨て、一人侘しく暮らす中年組員……。口座も持てず、子供の運動会にも参加できないという不遇と被差別の中、この道しか選べない男たちの哀れが滲む。山口組の顧問弁護士・山之内氏と、彼の事務所で働くおばちゃんのキャラが特に印象的。
ドラマ版は未見だが、一色伸幸脚本、『あまちゃん』の井上剛監督ということで、勝手に期待を寄せすぎていたのか。人のいなくなった被災地。その街の姿こそが雄弁に何もかもを物語る。そこに子供たちの青い感傷をいくら乗せても、景色に顕在する厳しさ、酷さに到底追いつかない。演技とはそういうものと承知しつつも、大人が頭の中で作り上げたドラマや幻想に従って動き、ことばを語らされる子供たちが不憫にすら思えてしまった。主人公が教師と付き合っているという設定は必要だったのか?