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「実際の事件に基づく映画」で肝心なのは「どの事件を取り上げるか」と「それをどう描くか」の二つだが、その前者において本作は日本映画として稀に見る有意義な作品。どうして現在の日本産業界がこんな体たらくになってしまったのか。報道で知ったつもりになっていたWinny事件が、丹念に掘っていけばその核心を抉るような出来事だったことに刮目させられた。画的には地味になりがちな題材を、またしても東出昌大の好演がカバー。世間の評価と実力にこれほど乖離がある役者もいない。
即席で完成まで漕ぎ着けたことは吉と出たか凶と出たか。吉と言えるのは、まだ記憶が生々しいが故に「観てみたい」と純粋に思わせてくれたこと。リスクを引き受け、短期間で役を仕上げたタモト清嵐のプロ意識にも感心。凶と言えるのは、想定以上に容疑者に世間の同情が集まったことからくる微妙なズレか。安いデジタル映像による、報道の焼き直し的モノローグで綴られる再現ドラマパートがまどろっこしい。作家の特性をふまえるなら、もっと妄想に振り切った方が潔かったのでは?
正直、竹中直人監督作にも浅野いにおのコミックにも苦手意識がある。もちろんただの食わず嫌いではなく、それぞれ過去作に触れてきた経験からその哲学や美学に隔たりを覚えてきたのだが、今作には思わず引き込まれてしまった。最大の要因は柳田裕男のカメラ。竹中の念頭にあったのは石井隆作品なのだろうが、近年柳田が関わってきた若手監督との仕事の成果もしっかり流れ込んでいて、時流から外れた自分を良しとする主人公のナルシシズムに、ある種の現代的説得力が生まれている。
同時期に公開されている「フェイブルマンズ」と比べるのは酷としても、ほぼ同じモチーフの「SUPER8/スーパーエイト」とはどうしたって比べてしまうわけだが、タイトルにはその日本版とのわりきりもあるのだろうか。漠然とした「映画愛」みたいなものからは一歩踏み込んで、特定のジャンルへの偏愛、自主映画の技術的課題、そして何よりも小中和哉監督の個人史的な青春映画として、焦点の定まった作品にはなっている。しかし、この素朴さを2023年に推せるかというと……。
格別ネット上の専門用語が多いわけではないし、主人公の逮捕容疑は、彼が開発した“Winny”をめぐる著作権法違反幇助。けれどもハイテク絡みの情報はからきしお手上げのこちらとしては、実話の映画化と承知していても、事の重大さが摑みきれず、警察の尋問調書をめぐる問題も加わり、混乱する。それだけに渦中の人になってしまう主人公役、東出昌大の、世間の雑音に動じない飄々とした演技が際立つ。そういえば並行して描かれる県警の裏金作りも実際に起こった事件だった。
昨年9月の安倍元総理の国葬に合わせて単館公開された本作の“未完成版”情報は聞いてはいたが、ざわつくタイトルはともかく、作り手側の、主人公に対する心情、忖度が妙に中途半端な再現劇だったとは。当然、事件後にマスコミなどが散々報じた背景状況の通りに展開する。そういえばかつて誰かが、革命はロマンだ、と言っていたが、それを意識したように、唐突に、主人公が星を目指しているというのも曖昧で甘っちょろい。家族に流されない妹のキャラクターが唯一頼もしい。
漫画家である主人公の自虐的言動は、業界における自分の足元がグラつきだした不安の裏返し。他の漫画家に向けた、たかが漫画家のくせに、という主人公の台詞は、自分もたかが漫画家であることへの苛立ちが言わせた言葉に違いない。そんな彼が、かつて因縁のあった“猫の目顔”の娘にそっくりのデリへル嬢と親密になり、束の間の寄り道。それにしても、主人公の厄介な自意識に冷静に寄り添う竹中監督の、恥じらいのある演出と映像センスには降参だ。されど漫画、というオチ? も痛快だ。
当時の高校生ってこんなに子どもっぽかったの? 1978年。令和の今ならさしずめ中学生、いや小学校の上級生のレベル。「スター・ウォーズ」に夢中になった彼らが、文化祭に向けて、8ミリカメラで宇宙船の映画を撮ろうとする話で、脚本作りの迷走から、外に出ての撮影まで、“映画の映画”ふうに描かれる。必要は発明の母的な工夫や、カメラ屋の大学生の助言もあるが。ま、何かに熱中するのは青春時代の特権だが、映画作りに特化した本作、単純過ぎて、正直、観ていて間が持たない。
主人公のコッテ牛の如き御しがたさと特異能力に「ファイヤーフォックス」のミッチェル・ガントを想起。イーストウッドの映画というかC・トーマス原作の、この胡乱な奴は大丈夫かと疑う傍の人物が、あるときガントが戦闘機に乗りたいという渇望をむき出しにしたことで、この男だと腑に落ちたあの感じ。個の突出と無目的な発明(根底にはフラットさの志向)に対立する警察的取り締まりの構図。そういう人物造形と関係性描写が「REVOLUTION+1」にも欲しかった。
期待以上ではない。題材と製作の速度、タモト清嵐の演技と存在感のほかに、もっとこちらを撃つものが欲しい。控えめに言っても私は元首相の暗殺とその犯人の来歴におもしろさを感じてしまっている。おそらくその点で一致する本作が、安倍晋三や現体制を批判しない人たちを巻き込めなさそうなこと、そういう不器用さ、粗さが悔しい。観念に頼りすぎたのでは? 本欄に並ぶ他の英字題名作品がやっていたようにモノによって細部から語るべきだったか。しかし必見の映画だ。
現代における成功したアーティストの代表格は売れてる漫画家だろう。その影響力、知名度と稼ぐ金のことはよく語られ知られている。同時にその成功が人気獲得、徹底的な世間への迎合によるものだとも。自己の表現とか内面の吐露では食えない。その食えないことが表現になっていった漫画家つげ義春原作を監督主演した竹中直人氏が、食える以上の栄達も成した漫画家の零落をいま最新作として監督する円環、個の尊重が沁みる。また、石井隆監督作の村木のような男を見た、とも。
自分は75年生まれだが大学の映研に行くとまだギリギリ本作主人公らが使う機器や8ミリ文化は存在した。そう、スーパー8(高い。手間かかる)でなくフジのシングル8だ。本で知る前に体験的にアクションつなぎを発見した。ZC1000が部室にあり、72コマスロー撮影を知った。8ミリで撮る女の子がたとえようもなく美しいことも知ってる。本作主人公や小中和哉氏ほどの才はなくともクローズアップを発明するグリフィスみたいな思いは多くあった8ミリ時代。今はどう?