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一見、「意識の性差ギャップ」という初期のモチーフに𠮷田恵輔が回帰したかと思わせる本作だが、終始女性側に理があり、男性側には一瞬も共感を覚えなかった。なので、終盤の展開にはカタルシスよりも違和感が。とはいえ、細部までウェルメイドな𠮷田恵輔作品の美点は健在で、国外含めユーチューバーを題材にした映画にろくな作品がなかった中、そこに一矢を報いたとは言えるだろう。お人好し男がムロツヨシ、イタい女が岸井ゆきの、というのはタイプキャスト過ぎると思ったが。
説明にテロップを使う怠惰さ、さらにその文章の拙さに「?」となっていたら、中盤から思わぬ展開に。そんな野心的な構成や印象に残るショットなど長所も少なくないのだが、映画として骨格がこれだけガタガタではすべてが台無し。いくら台詞が棒読みでも、あるいは台詞を嚙んだシーンをそのまま使うのでも、作品内でその基準が一定に保たれていればまだ観られるのだが。ここまで無理をして映画というフォーマットにこだわらなくてはならないほど、今も映画は特別なものなのだろうか?
「東京は反文化都市」「配信を敵視してきた」といった支配人や副支配人の言葉の端々から本心が窺える。自分はそれをはっきりズレていると考える立場だが、だからこそミニシアターが置かれている現状の理解には役立ったし、昨今表面化している日本映画の制作過程における諸問題と地続きであることにも改めて気付かされた(特殊な成り立ちであるこの劇場を過度に一般化すべきではないが)。タイトルに「コロナなんかぶっ飛ばせ」とあるが、本当の問題は「コロナ」ではないはず。
山本直樹の原作が発表されたのは1999年。オウム真理教事件の余波の最中で、その約20年前に起こった人民寺院集団自殺をレファレンスの射程に収めた作品だった。そこからさらに20年以上が経過して、新興カルトの前提となる社会がすっかり変化した痕跡、つまりこのタイミングで実写映画化した理由が、本作には見当たらなかった。夢や回想のシーン以外、ほぼ全篇を極端に限定されたシチュエーションと人数で展開していくならば、もっと映画的趣向を凝らす必要もあったのでは?
男子小学生のなりたい職業の上位に、ユーチューバーがあるそうで、そうか、憧れの職業になっているのか。本作の岸井ゆきのは、フラフープや一輪車に乗ってものを食べている動画を流すのがせいぜいのユーチューバー。当然、誰も見ない。そんな彼女のために損得抜き、いや借金までして協力した男が、ついにぶち切れて彼女を狙い撃ちにした暴露系ユーチューバーに、というかなりエグいコメディで、きれいごとにも限界あり!! 𠮷田監督が楽しんで撮っているのが窺えるネット狂騒曲である。
ろくでもない世界に絶望し、みんな死んでしまえ、と願うのは、思春期の子供たちにありがちな現象だが、99年生まれという保谷監督は、そんな極端な発想をべースにカラーとモノクロの二つの世界を作りあげ、しかもカラーの世界はモノクロ世界が生み出した自由のない全体主義。発想は子供っぽいが、なかなか侮れない怪力作である。モノクロ世界の舞台がいじめありの中学校なのもリアル。漫画にアニメに写真や特撮、銃にピアノに達磨光現器なる悪人退治道具まで登場、そして巨大観音像!!
そういえば以前、シネマスコーレの副支配人、坪井篤史のドキュメンタリー「劇場版 シネマ狂想曲」を観たことがある。ある種の映画を神輿のように担ぎ上げ、ゲストを招いて学園祭的に大はしゃぎ。本作にも坪井副支配人は登場するが、コロナ禍でイベントも開けず意気消沈、退職まで口にする。それに比べると、シネマスコーレ生え抜きの木全純治支配人は、精一杯の言葉と行動で映画文化を守ろうとする。1円に至るまでの収支報告もさることながら、自ら劇場の補修をする支配人に脱帽だ。
「夜を走る」「鬼が笑う」と、ここ立て続けにカルト宗教が登場しているが、本作は孤島で修行中の宗教3人組のかなりシリアスなピンク系ブラックコメディで、殺しまである。悟りを得るためにストイックな合宿生活を送っている男2人に女1人。女は若い。当然、男2人はいま目の前にある欲望の対象に翻弄されていくのだが、精神と本能の対決ふうな小難しい展開があるわけでもなく、終始白いTシャツに半パン姿で動き回る彼らはどんどんワイルドに。北村優衣の大胆な演技は悟りかも。
自分はYouTubeをやるわけでもないしバズるとか炎上の経験なく、ちょこちょこ文章書くくらいで自己顕示が結構満腹なんで、たしかに見られる快感はわかるけども、そこまで頑張ってしまうこと自体にはヒヤヒヤする。岸井ゆきの氏は嫌な女演じてもかわいい。ところでムロツヨシ氏は悪人をやったほうがいい、それが見たいと思わせられた。本作のような怒りと復讐の由来や経緯がわかるものでなくもっと獣的な攻撃性のある怖い人、それこそ「ヒメアノ〜ル」の森田みたいなキャラをと思った。
かなり計算されて、意志的にわけのわからないものになっていると思うが、このわけわからなさだけでもう断然評価したい。呂布カルマが一刀彫の観音像をマイクのように握って説法ラップをかますところで、確実に異様な何かが起こっている、と嬉しくなった。構造上、後半部分が失速してしまっていると思う。前半の妄想世界の全面展開こそが最高の夢であった。そこに浸っていたかった。ただそう感じた者は既に少年とシンクロしている。そのため、観た後、眼から光線が出そうになる。
映画館の運営から離れてかなり経つがその記憶は残っていて、ひとが集うことがひたすらに良きことであり、それがあらゆる意味あらゆる方向にはたらく力であったという感覚があるので、新型コロナ感染症の流行、そのために、集うな、となったことはほんとに憎かった。それは現場の人間ならもっと切実、深刻だろう。現在劇場で流れる映画館の換気の解説映像はこういう意志で、やってできたの? そこなども含め、本作が記録した木全純治氏、坪井篤史氏の奮闘ぶり、情熱には頭が下がる。
原作漫画から二十余年経ってここまで的確に映像化されると、もはやオウム真理教への揶揄や批判を超えた、普遍的な社会論人間論のように見える。メインはほぼ三人の芝居だがこの彼らが素晴らしい。宇野祥平氏は「夜を走る」で新興宗教の教祖役だったが本作では同様の組織のランク12位の「議長」。どこに置かれても説得力のある演技マンが今回も見事。磯村勇斗氏もここまで出来ると知らなかった。北村優衣氏の全身、磯村北村の絡みに、組織化を否定する真のユートピアを見た。