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序盤の取って付けたような元号にまつわる恋人同士の会話は面映いが、これはとても切実で地に足の着いた、社会の非流動性(つまりは格差社会)の中でもがく「令和」の若者たちを描いた作品だ。上滑り気味の台詞やありがちな展開もすべて機能して、近年の「リアルっぽい青春映画」とは一線を画したリアリズムを獲得している。憧れやノスタルジーではなく、生活と地続きにある救済としてのポップミュージック=カルチャーの描き方が象徴的。ロケーションの選び方や編集のセンスも非凡。
最新型iPhoneの売りは搭載カメラの「シネマティックモード」だ。そこでいう「シネマティック」の定義はさておき、この先、我々はますます様々なかたちで「映画らしきもの」を目にすることになるだろう。本作ではまるでそんな「シネマティック」以前のホームムービーの長い歴史に墓標を立てるかのように、文字通りの「焼け跡」から救い出されたフィルムと旧型iPhoneの映像が紡がれていく。評者のテイスト(私小説的アプローチが苦手)とは別に、その歴史的な意義はあるだろう。
主演、脚本、監督を一人でやるというのは、素人か映画に愛された者だけに許された手段だ。それなりに画だけは成り立っている時点で、のんは映画に愛されているのかもしれない。しかし、この極端に限定された登場人物とシチュエーションで、長回しやイメージ映像を多用しての115分はいかにも長い。「自身の感性への過信」というのが近年ののんの活動全般から受ける印象なのだが、彼女はそんな自分を客観的にちゃんと把握はしているのだな、というのが本作での発見。
中学時代は顔も名前も覚えてもらえず、再会してから数年経っても手さえ繋いでもらえず、映画が始まって1時間以上過ぎても付き合ってもらえない主人公の相手役の境遇に深く同情した。ということは、自分なりにこのメロドラマにどっぷり入り込んだということ。映画好きからは揶揄されがちな「難病もの」だが、これほど欠点らしい欠点のない同ジャンルの邦画は「8年越しの花嫁 奇跡の実話」以来だ。テレビ作品含めこのところ乱発気味の藤井道人だが、本作が最も優れているのでは?
凪の反対語は時化るだが、ここに登場する20代後半の男女たちは、格別、時化的な状況にいる訳ではない。惰性で同棲しているようなカップルにしても、仕事のミスを叱責される社員にしても、あくまで彼ら個人の裁量だ。ところが本作のチラシには〈大きな時代のうねりのなかで、日々、翻弄される私たち〉とある。そうか、受け身で流されているのは時代のせいなのか。中盤、受け身では済まされないことが起こり、やっと行動に出るが、言い訳がましいタイトルといい、甘い、甘い。
さすがドキュメンタリー作家の夫と妻。全てが焼失してもただではおかず、作家魂をメラメラ燃やして、その過程の逐一をモバイルで撮るとは。自然災害などと違って民家の火災は、その原因がどうあれ、周辺の人たちにも影響を及ぼし兼ねないのだが、本作はそんな世間体よりもまず家族と焼け残りのあれこれにカメラを向けるのだ。公民館で過ごす家族の表情。一見、プライベートフィルムにも思える作品だが、「クロニクル」というタイトルはともかく、ある家族の記録として普遍性がある。
あ、のん、贔屓、ひいき! いやこの作品に関わっている岩井俊二や樋口真嗣などの人気監督が、まさか、のんの脚本、演出、演技にまで口出ししたとは思えないが、なにげに岩井作品を連想させるようなエピソードや、リボンの特撮がユ二ークなだけに、ついつい。聞けばのんはすでにYouTubeチャンネルのドラマで、脚本、監督、主演、撮影、編集まで手掛けているとか。ドラマは未見なので何とも言えないが、本作、スクリーン越しにのんとささやかな冒険をした気分になったりも。
情感たっぷりの映像。映像に寄り添う優しい音楽。愛し合う2人の晴れやかな笑顔。でも彼女の命の持ち時間は残り僅か。これで泣かなきゃ鬼、畜生。おっと、いくらタイトルで告知しているからといって、実話べースの話をふざけてごめんなさい。硬派の藤井監督の、裏のない落ち着いた演出はかなりクールで、難病を格別に特化せず、いま生きているその時間ごとのエピソードで繋いでいくが、そのせいか観終わっての後味が湿っぽくないのは大したもので、家族のキャラも面白い。
冒頭のボーイミーツガールから危機を経て終幕の寄り添いまで、予定調和のようでありながら男女と世界に緊張感があり、またくっついたときには平坦な円環でなく螺旋状に回ってきた感があった。あるとき瀬々敬久「糸」の感想で、何でこんな退屈な映画つくれるんだ、みたいなのを見かけたとき、ネガティブ状態から獲得された尊い普通が単なる普通と見誤られたのが悔しかった。本作もそれに似るものがある。五頭岳夫と小田篤が演じた人物の取り上げかたが本作の評価すべき美質だ。
フィルム撮影。デジタルよりも有機的な感じのブツとしての映像、不可逆で限定的でそれゆえに撮影には緊張と瞬間を惜しむ思いがある。その重みがあり、個人のメディアではないとされていたフィルムを、個人的なペンとノートのように用いた映画作家たちがいる。それはスマホで日常的に映像が撮れることとも違い、その営為により作家たちはフィルム人間に変質した。「ヴィデオドローム」のヴィデオ人間的な。だから燃えたフィルムのように火傷した原將人監督にひたすら納得する。
先日現役バリバリの監督さんとの雑談で、いま皆がマスクし距離とり消毒し自粛してるのになぜ映画登場人物はそれをしないか、これをがっつり描く映画が少ないか問題が話題に。いくつか理由が考えられた。顔を隠すことで映像や出演者の価値が下がるのでマスクしたくなくてその世界はコロナがないふりした。長く残る映画で、ある時期ある時代が刻印されるコロナ描写したくない。等。本作はそういう姑息さの真逆。『スラムダンク』山王戦のようにいまを生きる。真摯。誠実。普遍。
※原稿締切日までに、マスコミ試写会で鑑賞できませんでした。