パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
ワーナー×日本テレビ×藤原竜也という、「デスノート」を発端に手を替え品を替え15年以上続いている座組でも出色の作品。『ファーゴ』シリーズ(2010年代以降、「ファーゴ」といえば映画ではなくドラマシリーズのこと。念のため)を思わせる僻地ミステリーの精巧なプロットにすっかり翻弄された。自身の企画と受注企画とで作品にムラのある廣木隆一だが、原作コミックとの相性がよほど良かったのか、まるでオリジナル作品のように繊細で抑制の効いた演出手腕を披露している。
地方の温泉街という設定を差し引いても、白昼に女子高生の髪を摑んで暴れるヤクザが現代にいるのだろうか。ヤクザだけじゃない。地方政治家や出稼ぎホステスの人物造形も、すべてが非現実的なレベルで類型的かつ古い。その必然として、グローバリズムやレイシズムに関する台詞が恥ずかしいほどすべっている。役者のガス抜きのために事務所が出資をした作品という印象を受けたが(あくまでも印象です)、この仕上がりでは役者のブランディングにおいてマイナスでしかないのではないか。
「行き遅れ」キャラの芸人をテレビのバラエティが笑いものにできなくなったことは、日本社会も少しは進歩したということなのだろう。しかし、キャラを奪われた当事者にとってはある種の営業妨害なのかもしれない。本作では、そんな芸人のキャラがポリコレ無法地帯の日本映画にそのまま移植されている。それにしても、商業映画である以上どこかに「売り」があってしかるべきだが、その「売り」が最後までわからなかった。プロット、撮影、編集など映画の骨格はしっかりしている。
平一紘監督、脚本では宮藤官九郎チルドレン、演出では作品の座組的にも堤幸彦チルドレンと言えるのか。そこに心が躍るわけではないが、事実上の長篇商業作品デビューでの安定感という点では、今後も日本映画界で重宝されていく予感がする。それにしても、あのコザ暴動前後の70年代のコザを完全に政治性を排除して描いているのはともかく、50代や60代でもないのに宮藤や堤の過去作にもあった、ロックという時代の役割を終えたジャンルへのロマンティシズムまで継承することはないのに。
新感覚サスペンスと謳っているが話の発端からしてやたらにもどかしい。ただ、そのもどかしさが危なっかしいゲームを思わすこの作品のサスペンスになっていて、とりあえず最後まで飽きさせない。予期せぬ死体を隠そうとする3人の共犯者の、島におけるそれぞれの立場が、さらに予期せぬ死体を招き寄せてしまうのだが、結構遊びもあり、余貴美子の役どころにはついニヤリ。藤原竜也と松山ケンイチの役を入れ替えてほしかったような気もするが、成り行きの裏に仕掛けがあり、騙される。
外観は本質である、という言い方があるが、企画&主演のディーン・フジオカが、あえて日本人をビジュアル化して描こうとした意図は面白い。神社で独り黙々と肉体を鍛えているくだりなど、ストイックなイメージも。けれども結果として、かつての任俠映画のパロディに近い、日光江戸村のアトラクションムービーになってしまっている。いや、それも計算のうちか。正面撮りの演出、映像が多いので、舞台中継のような場面もあるが、それでもなにげにタランティーノを連想したりも。
暗喩や風刺といった小細工はせずに、しかも声高でもなく、日常に入り込んだ全体主義を淡々と拾っていく脚本と演出に感心する。廃れたラブホで老女たちの世話をするよしこにしても、ごく普通の中年に過ぎず、奇妙な法律やルールがあっても、自分にふりかかって来なければ、黙ってやり過ごすに違いない。そんなよしこのささやかな意地と抵抗が描かれていくが、何かが変わるわけでもない。それでもよしこは何かに気がつく。この作品が作られたことにエールを送りたい。
ロックを繋ぎにして現代と1970年代をクロスさせたのが心憎い。衰退した現代のコザと、ベトナム戦争の余波でお祭り騒ぎの賑わいがあった70年代のコザ。まさに米軍におんぶに抱っこの基地の街。けれども若者たちには解放区で、若い彼らはロックで主張する。タイムスリッブ映画として、過去の人物と名前が私にはいまいち判別がつきにくかったが、長髪でステージに立つ桐谷健太のパワフルな歌は、大いに熱い気持ちにさせる。むろんベテランのロッカーたちも聴かせて魅せる。
ずっと曖昧で、ヌルッとした状況に、ヌルッとした対応が積み重なっていく。それがまったく見誤りようがなくいまの日本というものを指しているつくりだしそういう狙いだが、そう見て取ることにも、観ること、語ることの高揚はなくて難しい。ネットフリックス版『新聞記者』への批判としてよく見る、それがどうした、を呼び込むほど現実やモデルとなることに近くはなく、ちゃんと固有のフィクションとしてこの負の連鎖を味わえもするが、いや日本人、ダメだ……。
ディーン・フジオカ演じる男の設定がアクションの音効担当というのがおもしろい。たとえば多くのミュージカル映画がダンサーを登場人物とすることでバックグラウンドものとして踊ることを自然なものに見せかけようとするように、アクションアクターが主役であるからアクション場面、という映画はいままでもたくさんあったが、本作にはそこに一拍のためらい、吃音がある。結局アクションするが。そういう意識はいささか仰々しい巻頭言にも関係あるだろう。
足腰の強い政治的寓話の面白さを堪能した。これがやれてどうして「ハレンチ君主 いんびな休日」がだめなのか。製作側と現場の連帯、性根の座った製作が大事だと思わされる。宗教的象徴君主を崇めて個々人の人権が蹂躙されている世界にポイとその君主が現れたとき彼が不審者としてリンチされる、という必然、仕掛けにはゾクゾクするものがある。彼に対比されるいとうあさこ氏演じるうらぶれて社会からこぼれる女が、令和って何と言わんばかりの昭和的重み荒みで素晴らしい。
そのハードロックのコブシは近年観た日本映画のサウンドの中でダントツにカッコよかった。沖縄コザの現在と70年代を往還し結びつけるSFファンタジー的設定も、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」み、血族の因縁などが突飛さを超え切実で好ましかった。しかしストーリー上の主題として、“思いやり予算”(←最近では同盟強靭化予算という)映画。それは沖縄への米軍駐留に不満を持つ者が悪いふうの2019年の映画「小さな恋のうた」にも近く、その誘導ぶりに爽快さは曇る。