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キャラクターの造形を作り込んでから台詞やストーリーを紡ぐのではなく、冒頭の「夜の湖に浮かぶボートで向き合う姉妹」に象徴される撮りたい画や織り込みたい展開(東京で仕事をする20代女性が携帯電話を持っていないのはいくらなんでもエキセントリックすぎる)のために優先されたのであろう設定の数々がノイズとなって、物語に入り込めなかった。これまで映画出演経験の少ない女優たちはいずれも魅力的、撮影も綺麗で、構図、編集のセンスも悪くないのでもったいない。
「え? このままで大丈夫?」と冷や冷やさせながら、いずれも見事な着地をみせる3つのエピソード。短い時間にテーマやモチーフをぎっしりと塗り込んでいくその手つきは、作品フォーマットのレファレンス元であろうエリック・ロメールやホン・サンスの一筆書き的な短篇作品ともまったく違う。現代日本の社会や文化や風景の貧しさ、そしてそれを嘆くのでも自嘲するのでもない濱口竜介の透徹した「棘」のようなものまで、しっかりと画面に映り込んでいることに感心させられた。
90年代後半に東京で生まれた、役者としても活躍中の新人監督による尾道という土地への愛着と全共闘世代へのノスタルジー。つまり、いずれも疑似的なものなのだが、不思議なことにそれが上滑りすることなく血肉化されているのが作品の熱から伝わってくる。渡辺あやの脚本はさすがに洗練されていて、抑制された台詞劇としての魅力も十分。しかし、この「君の名前で僕を呼んで」を薄味にしたような物語からは、須藤蓮という表現者固有の「声」までは聞き取ることができなかった。
ワークショップの制作環境を利用して、「現実から浮遊したスモールワールドで若い女優が暴れ回り、反体制的なイメージと戯れる」という自身のシグネチャーに園子温が回帰した作品ということになるのだろう。日本のサブカル村(演者も含む)がこぞって誉めそやしていた10年以上前から、園作品における客観性の徹底的な欠如は何も変わっておらず、自分は一貫してそこに批判的だ。それにしても、ここまでの作家的増長の責任は、本人よりもそれを看過してきた業界にあるのではないか。
2組の若い姉妹が絡んでの行方不明事件に、自殺あり、殺人あり。何やらひと頃流行った火曜サスペンス並みの大仰な設定で、インディーズ映画としては異色である。これが長篇デビューという監督自身のオリジナル脚本。けれどもこの脚本に取り憑かれているらしい監督の演出が乱暴なほど強引で、人物たちの言動もその場限り。過去の因縁話も取って付けたよう。琵琶湖ロケも“火サス”的な扱いで、赤いボートが何度も登場するのも気になる。それにしても包丁持参で妹探しとは。
脚本・監督、濱口竜介のストーリーテラーとしての才能とその巧みな演出話術にシビレた。美味しい料理にはドラマがあるというが、偶然を共通項にした3話仕立ての本作が、さりげなく前菜、メイン、デザートふうに配置されているのも満腹感を誘う。若いモデルが恋の未練を軽やかに振り切る第1話。言葉によるエロスの交歓がヘビーでほろ苦い第2話。勘違いの奇跡を描く第3話がまた美しい。声と言葉がまるで映像化されたようにアクションしているのも奇跡的で、俳優陣も皆みごと。
夏の尾道。時間を持て余しタバコばかり吹かしている先輩は、三島でも読んでみるかな、という。先輩を誘って実家に帰省した大学生のぼくは三島由紀夫に詳しく、相当読んでいるらしい。だからか本作からも三島的な禁断の愛でも描いてみるかふうの意図が窺われ、いささかくすぐったい。いや、はじめに三島ありき? まだ携帯がないころの数日間。ぼくの幼なじみの地元娘たちのキャラクターが懐かしく、ぼくとの距離間も説得力がある。大した事件が起こらないのが逆に三島的かも。
あっ、自転車に「俺」と書いた白い幟! 園監督の原点「自転車吐息」の、あの俺だ。ただこの作品ではただの通行人扱いで、それがちと残念。ともあれ多くのエキストラを使って(でも全員顔が見える)映画作りをここまで遊ぶとは、さすが園監督ならではと嬉しくなる。しかもエキストラに光を当てているのも小気味いい。グループの追っかけまでいるカリスマ監督のキャラクターがいまいち弱いのが物足りないが、映画の持つ俗性とある種の神聖さを滲ませた本作は応援したくなる。
ちゃんとした映画は設定なり登場人物の振る舞いなりに妥当性というか、こうだったらこうなる、こうする、ということへの観る者が納得しうる水準があり、普通じゃないことを重ねられると観ることの困難が生じる。普通でなくてもいいがそれはどこかで作品内がそういう世界であることを納得させるか、明確な切り替えポイントをつくらねばならない。全員悪人ヤクザ映画とか全員変人の映画づくり映画とかは逆にやりやすいだろうが、その点本作は難しく、うまくない映画だった。
ずっと日本映画と日本人の生活においてエリック・ロメール映画のような恋愛関係と性愛関係さらに言えば人間関係全体そのものについての執着と、それを語り見せることと、観察と洞察と認識がもっとあるべきだと思っていたところに出てきたのが濱口竜介監督作「PASSION」(08年)。古い話で恐縮。あの渋川清彦、占部房子、河井青葉が本作ではさらに深化していた。彼らが緑の光線の存在を証明するために始めた旅が仲間を増やし成果を得ながらまだ続いているのが嬉しい。
私はある映画の面白い面白くないは、それが単に機械的な映像(と音響)であることを忘れさせる、躍動なり情感なりがみなぎる場面を持つかどうかだと思っていて、それでいえば本作は海辺の遊びやダンスホールや蚊帳に入って氷枕を使うところなどで実にみなぎっていた。また個人的にはある映画が優れているかどうかは仕掛けの早さや隙の有無により、優れた映画には雰囲気だけの瞬間などないと考えるがその点本作は隙が多かった。富山えり子氏が演じた文江、素晴らしかった。
園子温監督作の出演者がさらけだすんじゃー、うおりゃー! とやりだすときの賑やかさと活気は大変好きなのだが、それが必ずしも何かをさらけ出しているのではなく逆に覆ってしまうこと、監督自身がそのスタイルの影に隠れることに、特に近年は困惑させられながら観ていたが、本作の全員主役コンセプトは、うおりゃー! 多発を空疎化させない意味と、他のすべての映画までも見方を変えてやろうかぐらいのアイディアが感じられて面白かった。いい顔の遍在という映画的幸福。