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この手のテレビ屋映画にいちいち目くじらを立てるほど大人げなくはないつもりだが、行き当たりばったりな編集によるグダグダのテンポで旬でもない脇役たちの旬でもない小ネタが空回りしているのを延々と見続けていると、さすがに体調が悪くなってくる。看板を背負う深田恭子は、コメディエンヌとして弾けることなく主に狂言回し的な役割。一方、橋本環奈は福田雄一組だけでなく本作でもそのデフォルメ演技が重宝されているが、この路線のまま消費され続けて大丈夫なのだろうか?
今年公開された作品だと「スプリー」や「メインストリーム」など、YouTuberの自己承認欲求というのは東西問わずタイムリーな題材のようだが、「映像を撮ることについての映像」という入れ子構造になるからだろうか、どうしたって不快な主人公になってしまうからだろうか、上手くいった例を見たことがない。本作はそれ以前の問題として、監督の持説を代弁させたような稚拙な台詞の数々にうんざり。YouTubeの台頭を待たずに、日本では映画が表現のハードルをとっくに下げている。
原作は綿矢りさの文芸作品だが、キャスティングからも、大半のシーンが校内であることからも、ジャンル的にはティーンムービーと言っていいだろう。そういう意味では、近年自分がいろんな場所で苦言を呈してきた「ティーンムービーの作り手が中年男性ばかり問題」を根底から引っくり返してくれるような快作だ。同性でも共感できる人は限られそうな女子高生の歪な心の動きを、歪なまま淀みなく映画的に表現できている。そのストーリーテラーとしての基礎体力の高さに舌を巻いた。
他の分野において(おそらくは)秀でたアーティストが、映画という表現フォーマットにさほどの思い入れのないまま、本業における自己評価の高さのまま無造作に乗り込んでしまった作品にありがちな、独りよがりさに途中から辟易としてしまった。ドキュメンタリーとしては監督自身によるナレーションが饒舌かつ主観的すぎて評価のしようがないので、映像による随筆のようなものと受け止めるしかない。知床に行ってみたいとは思ったので、観光映画としては一定の価値はあるのか。
原作もドラマ版もまったく知らずに観て、ただキョトン! 俳優たちのナリフリをフィギュア風のおもちゃキャラにして、ビックリハウス的なアチャラカ空間でドタバタした泥棒一族の大騒動。慣れれば癖になるのだろうが、慣れた頃には新派悲劇もどきの一族秘話になり、ガクッ。唯一笑えたのは、いきなり意味なく現れて、ひとり上機嫌で歌い踊る大貫勇輔。「テルマエ・ロマエ」「翔んで埼玉」ではしっかり楽しんだ武内監督のエンタメ演出も、今回はただド派手に騒いでいるの図。
SNSやユーチューバーの暴走を描いた映画は世界的な流行で、珍しくもなんともないが、熊坂監督自身のオリジナル脚本による本作、見る前に飛ぶという若い世代の特権と、その危うさに焦点を当て、かなり小気味いい作品だ。集団やシステムにまったく馴染まない休学中の女子高生が、ひょんなことから思いついたのは、善意のフィクションをSNSに流し世界を変えること。口達者な彼女の言動は未熟なりに説得力があり、“引きこ森”なる造語も痛快。演じる小野花梨の天衣無縫ぶりに感心。
「私をくいとめて」「勝手にふるえてろ」など、映画化された綿矢りさ原作の女子たちは、ほとんど独り相撲でころんだり、躓いたりしていて、観ていてイライラすることが多いのだが、本作の、恋しい相手に受け入れてもらうために、どんな遠回りも辞さない女生徒には、結構、肩入れしたくなった。校舎の外壁を忍者顔負けで飛び越えたり。相手の秘密の恋人に近付いての大胆な行動も独り相撲のリアクションとしてスリリング。首藤監督がそんな女生徒に偏見を持たずに描いているのもいい。
ドキュメンタリーというよりも、映像によるお洒落で気ままなポエトリー? 北海道、知床斜里。雪原を真っ赤な毛糸の着ぐるみ姿でゆっくり歩くのは、監督でもあるダンサーの吉開菜央だそうで、確かに画として効果的。この地のパン屋さんや漁師さんの日常などにもさりげなくカメラを向け、映像エッセイ風な趣も。むろん厳寒の斜里の無言の風景もふんだんに写し出されるが、どの映像もどのスケッチも、監督の個人的なアルバムでも見ているようで、いまいち摑みどころがない。
いくら深田恭子さんに(勝手に、密かに)絶対の忠誠を誓う身としてもいささかキツイ。いや、お綺麗でしたが。いまここで展開する映像と音響と演出が薄い。最近も次号本欄用の某「劇場版」映画を観て、“ほら皆様ご存じの……”という弛緩した姿勢にまずは閉口した。そこを越えて伝わるものもあるが。本作は「翔んで埼玉」製作陣によるものだが、埼玉にあった階級闘争のような背骨、底光りする見応えがここにはなかった。父親を詰る長兄役の栗原類氏の芝居には訴求力があった。
本作ラストには、DaiGoが抱樸で研修しようとしたときまたそこでも撮影をしようとしていたのに似たものがあり、多分主人公は反省できないがそれもまた良し。道具立ての新しさとは別に罪と罰対応が古典的で、その普遍は好きだ。「暴行儀式」(80年、監督根岸吉太郎、脚本荒井晴彦)のラスト、若者らが“僕たちは人を殺した”と叫びつつ通りを練り歩く場面を観たとき、ソーニャによるラスコーリニコフへの“広場に行って改悛せよ”は未だ有効だと思ったが、いまも有効かと。
原作未読。高校生活終盤というくぐり抜け方の難しい時期を器用に切り抜けられそうなヒロインがその小器用さゆえに自らに切実な実感がないと思い、あるカップルの男女双方に対して誘惑者になるとは面白い物語。「テオレマ」の謎の青年の動機もひょっとしたらそれか。アイドルダンスの本番直前放棄は、独走トップの長距離走をゴール直前でやめるのに匹敵する。かつて諸作品で生き惑いの当事者だった山本浩司、河井青葉、板谷由夏、萩原聖人が教師役や親役であるのに世代交代感。
「ザッツ・ダンシング!」(85年)でジーン・ケリーは古代壁画や彫刻を示し、人類が古くから踊り、その姿を記録してきたと述べるが、そこにはダンサーが自己のアイデンティティから人類史を捉える凄みがあった。本作「Shari」にもその感じに似たものがある。身体表現のひとががっつり風土と組み合い、その土地と踊ることで生まれた稀有な映画。対象の固有性に依存せず拮抗する個性となった作品。パン屋さん、木彫りコレクション、子どもの大相撲、言い間違いの取り込みに感動する。