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誰かが映像として残さなくてはいけなかった題材を残してくれた。まだ青山近辺が華やかな遊び場だった頃(近年は特に夜になると閑散としていて、まったく別の街に変貌してしまった)に何度か迷い込んで、こんな地価が高いところにこんな団地があるんだと不思議に思っていたが、その謎も解けた。様々な事情を抱えている住人たちのプライバシーには必要以上に踏み込むことなく、その表情やちょっとしたボヤキで問題提起を促す、その抑制の効いたアプローチも支持したい。
沖田修一作品ならではの、人間そのものへの寛容さと信頼が全篇に溢れている。原作(未読)由来でもあるのだろうが、その性善説的とも言える映画作家としての資質と、「リアルな10代にこだわった」という主要キャラクターを演じる役者2人の相性も完璧で、物語の起伏のなさに比して少々長い上映時間も幸福に過ぎていく。しかし、一体これは誰に向けた作品なのだろう? 日々リアルな10代に手を焼いている親世代としては、作中の子供たちの屈託のなさと素直さが眩しいばかりだった。
二つの点で本作には批判的だ。一つは、原案となった村上春樹の短篇三作(『ドライブ・マイ・カー』『木野』『シェエラザード』)の表題作の根底にある車へのフェティシズムが微塵も感じられないこと。本作のサーブ900は、コンバーティブルで黄色でなければサーブ900である意味はない。その表層的な原作解釈にも表れているように、もう一つは、村上春樹の国際的な知名度と支持の広さを利用しているように思えたこと。それでもなお、観るに値する映画であることに異論はないが。
まず、構図とアングルに並々ならぬこだわりがあることがほぼすべてのカットから伝わってくる。それが少々過剰すぎて逆にノイズとなっている局面も少なくはないが、映画としての強度には貢献していると言っていいだろう。一方で、10代の少女の特異な性癖や、高校時代から抱えてきた想いを大人になって成仏させるというモチーフやテーマは、90~00年代の国内インディーズ作品でも散々コスられてきたもので、そこに新人監督に求めるような視点の新しさは感じられなかった。
新国立競技場の建設で立ち退きを余儀なくされた都営アパートの住人たち。カメラの前にその生活ぶりを晒す住人の多くはかなり年配の独り暮らしで、中には前回の東京オリンピックのときの立ち退きでこのアパートに入居、また立ち退かざるを得ない人も。ナレーションを廃し、ここでの暮らしを諦めきれない人たちに寄り添うカメラはあくまでもやさしいが、ただ撮っているだけのような印象も。とはいえ本作、東京五輪の公式記録映画を撮る河瀨直美監督にはぜひ観てほしいと思う。
不勉強で原作コミックは未読だが、このタイトル、トリュフォーの「大人は判ってくれない」のお茶目なもじり? むろん、キャラクターも話もあの伝説的作品とはまったく無関係で、設定も青春映画の定番中の定番、ひと夏の冒険もの。けれどもこの冒険、危なっかしさよりも、つい笑いたくなるエピソードがてんこ盛りで、どの人物も魅力的。劇中に登場するテレビアニメがまたぶっ飛んでいて、さしずめ、このアニメが主役のような側面も。完璧なキャスティングの、中でも千葉雄大に拍手!
観終わったらクルマ酔いにも似た陶酔感が。村上春樹原作の映画化は市川準監督「トニー滝谷」とイ・チャンドン監督「バーニング劇場版」以外、感心した記憶はないのだが、赤い車とチェーホフ『ワーニャ伯父さん』を巧みに使った脚本と演出には、ただもう降参である。急死した妻への疑惑に呪縛された主人公の、呪縛からの解放。無機質な声による言葉が、逆に聞く人に生きた感情をもたらすことの不思議。そういえば無口なドライバー三浦透子が北海道の生家跡で語る言葉も乾いていた。
69分と小ぶりな作品だが、タイトルにも自嘲的な隠し味があるシリアスコメディで、脚本、監督の長谷川朋史、かなり達者である。高校時代に同級生の絵のモデルをしたばかりに性的な歪みが生じてしまったヒロインの、あのエクスタシーをもう一度。が、その高校時代の彼女のシーンがほとんど逆光で、表情が見えないのがもどかしい。絵のモデルになる肝心の場面も。しかもしっかり長回し。むろん、あえてそう撮ったのだろうが、ディテールが面白いだけに、表情の変化も見たかった。
今夏の東京五輪はまぎれもなく重要な問題から目を逸らさせるためのプロパガンダだった。目を逸らさず見なければならないものとは何か。この記録映像もそのひとつだ。脚光を浴びることのない日常の持続があることとそれが奪われること。コロナ禍というリトマス試験紙以前に(2014年から17年に撮影)五輪が反=人間的なもので、生活が自然と反五輪的なものとなることをあぶり出している。スポーツ観戦は好きだがこの夏は五輪中継、報道を見なかった。本作を観ることに替えた。
少女のひと夏の冒険、少女と少年の思いが全篇に満ち、現代的な軽妙さで語られた。本作の上白石萌歌は「海辺のポーリーヌ」(83年・監督脚本エリック・ロメール)のときのアマンダ・ラングレに匹敵する。いまだにのんきな可愛さがセクシャルさを覆う季節のなかにいて笑っている。豊川悦司はいまこんなふうなのか、善人か悪人かまったくわからない変人な感じが面白いな、とも思った。ふと、映画全体から重さや生臭さが抜かれすぎてるのではという気もした。原作未読。読まねば。
ほぼ3時間の映画だがそう感じさせない。体感時間100分。そこでこうくる? という展開を詰め込んでいて非常にエンタメ。セックス、カークラッシュ、銃撃、人死にもある。本作を観てからどうなってるのだろうと思って村上春樹の原作を読んでその古臭さに驚く。そのままやると絶対現在の映画に見えなかった。脚色は特にそこばかりに留意したようでもなくそれをクリアし、要所は忠実に、部分部分では超えて、映画にしていた。思慮深い手つきで必敗の生が慰撫、救済されるよろこび。
最初は場面や語り口について、こんなに無駄話やボーッとした佇まいでいいの、と心配したが途中グイグイ加速して面白くなった。敏捷な動物や幼児のように、まったく読めないリズムで向きを変えたり、走り出したりする体感の映画。気取らず、高尚ぶらず、また、いまだそれを自分で自覚も咀嚼もできない風情で女性の官能の不可思議と魔を語る映画。終盤のセリフ、「何か起こると思った?」が鋭く立つ。その期待の時間こそ劇。愛と戦いの女神、金星を背負った払暁の場面がよかった。