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主人公が同じだからといって、脚本も監督も俳優も異なる旧作と比較してあれこれ言っても意味ないことは承知だが、それでも新藤兼人監督「北斎漫画」のタフで飄々とした緒形拳=北斎を思わずにはいられない。今回の4章仕立てで描かれる絵師北斎は、時代の波ごとに、画風を変えながら絵を諦めないのだが、田中泯扮する晩年はともかく、野心まみれの青年期は騒々しいだけ。しかも重要な人物役の俳優陣が客寄せで呼んだように厚みがない。万事が徒花的な野心作!?でもったいなや。
「泣かせる映画で感動させるよりも、おバカ映画で感動させる方がカッコイイでしょ」とポンポさん。ナリフリはまんまアイドルキャラの映画プロデューサー。手掛けてきたのはB級映画がほとんど。映画を題材にしたアニメといえば「映像研には手を出すな」があるが、架空の映画の街を題材にした本作のキャラとストーリー、共感を誘うセリフと絵の美しさはもう抱きしめたいほどで、緩急のあるテンポも最高。そうそう劇中劇にも感心する。そして何ともカッコいい“90分”ネタのオチ!!
売春島の売春宿とは、かなりご大層な設定で、何やら時空の異なる世界の話のよう。そんな世界で生きる3人兄妹の愛憎が、澱んだ空気の中で進行していくのだが、どうも映画自体が独り相撲を取っているようで、いまいちピンとこない。格別土着性とか宿命的な要素があるわけでもないし。むろん、人間の業とか、出口なし的な状況を描いた寓話としてみることも可能だが、それにしては兄妹の関係も娼婦たちのエピソードも表面的でありきたり。山田孝之が受身演技ばかりなのももの足りない。
話を総花的に広げすぎた上に、乱暴狼藉ふうの集団アクションばかりが目立っていた「The Final」より、人斬り剣心の孤独と闇に迫った今回のほうがずっと面白い。幕府側の者なら誰かれなく斬って斬って斬りまくり、血まみれの死体の山。何が彼をそうさせたか。剣は得意だが何者でもない自分を何かにしたいという野心と欲望? 倒幕派の桂小五郎らはその野心を暗殺者として利用する。妻となる巴絡みの伏線も効果的で、愛は剣より強し。剣心と巴が農作業をするくだりはまるでおままごと。
男も女もツルンと現代的な顔しか登場しないのは昨今の時代劇に共通する難題で、むしろその現代味を逆手にとった異化効果を愉しみたいところだが、この映画は演出も演技もことごとく古くさい見得芝居に終始しており、えらく安っぽい。それとこれは前々から気になっていることだが、日本の映画人には、田中泯さえ出しておけば、という悪癖があるのではないか。今回のようにツルン顔のなかに田中泯を置くと、むしろ田中泯らしさが悪目立ちして重力の均衡が崩れると思うのだが。
ウェブマンガの人気ぶりは知っていたものの、ちゃんと読んだことはなく、したがってこの作品が原作をどう劇場映画に発展させたのかはわかりかねるが、「映画とはおよそこのようにつくられているのだろう」という妄想にもとづいた一種の職業ハウトゥものであり、「こうだったら面白いよね」という理想の投影としては楽しめる。ただ、ここでつくられゆく「映画」が実際には映画である必要がなく、それこそアニメ内アニメのような代物であることがしだいに頭をもたげてしまった。
「宮本から君へ」で垣間見えた佐藤二朗という役者の「いやな感じ」が全篇を支配する。と同時に、佐藤二朗の現在の立ち位置がなければ成立しなかったであろう映画。その意味で山田孝之ともども、正しい力の行使の仕方といえる。戯画化に陥る一歩手前の、あっけらかんとした人物造形の軽さは、脚本協力・城定秀夫の手腕が存分に活かされているところ。ただし、露骨な性描写やビザールな表現がもうひとつ血肉化されず、ウケねらいとしての過激さに映ってしまうのが惜しい。
「The Final」で明かされた過去を律義にたどっているというだけでなく、ことごとく型通りの愛憎劇でしかない「アリバイ」的な前日譚。絶えず鳴り響くジャーン調の劇伴にうんざりする。俳優のたたずまいも、業を背負っている人間にはとても見えず、なにやらもってまわった深刻さに終始して、ふくらみがない。あとはアクションシーン頼りということになるが、剣戟は中途半端に終わってしまい、後半はVFXと爆発の繰り返し。最後までこのシリーズとは相性がわるかった。
浮世絵の表現の生成と江戸時代の文化の活力、どうやれるか。「絵は世の中を変えられる」「海のむこうに未知の世界がある」「描きたいものを描く」といった反権力、自由、欲望の肯定と封建制の間に人物を息苦しく閉じ込めているのは、工夫がなさすぎる。謎の写楽は少年。少年期から活躍した柳楽優弥演じる青年の北斎がそれに焦る。老年の粘る北斎は田中泯が強引に体でやりきり、彼を支える娘お栄には本作を発案した脚本家河原れん。等々、橋本監督はいわば妙運を引きよせてはいる。
「ポンポさんが来ったぞー!」と自分で言って登場するポンポさんは、どう見ても子供だが、映画の都ニャリウッドの敏腕プロデューサー。製作アシスタントのジーンを監督に抜擢して自分の書いた脚本で撮らせる。主演は十年ぶりに復帰する大名優と映画未経験の新人女優。こういうの、アニメはやれる。ちょっと感心した。ここにある「映画」は決定的に古いが、映画作りの基本の一端を復習した気はする。平尾監督、ジーンと自分を重ねて考えただろうか。気づけるそのサインが欲しかった。
こういうヤバイ島が実際にあるのだろうが、これは架空の島の話。時代設定は「近過去」か。半世紀以上前ならいざ知らず、理解に苦しむ惨めさのオンパレード。山田孝之演じる得太の怯え方。その腹違いの兄の、佐藤監督自身が演じる哲雄の造型。真相が明かされても哲雄はたいした罰をくらわない。スッキリしないことだらけだが、全体に一種の執念がみなぎっているのも確か。仲里依紗、今藤洋子、坂井真紀たちの女優陣は、娼婦の役はどんな女優もサマになるという説を裏付ける以上の演技。
佐藤健演じる剣心、なぜそんな殺人機械なのか。「The Beginning」ならそこからやってほしい。勤皇側が勝利して「いい時代」が来る。その助けになれば、と斬りまくるのはしかたないとしても、その超人性と人間性との連絡は不十分なまま。有村架純演じる巴との顚末は、「The Final」で大体わかったことが引きのばされている。わかっていても驚かされるというほどのことにはならない。大友監督たちは、歴史、すなわち明治維新への批評的挑戦を試みる意欲を欠く。剣心以外の人物に魅力がない。