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ガロ、少年マガジン、朝日ジャーナルを、みんな回し読みしていた、と語るのは詩人の佐々木幹郎。このドキュメンタリーのタイトルにある“きみ”こと山﨑博昭と高校が同じで同学年。18歳で死んだ山𥔎博昭も回し読み仲間だった。当時を語る10数人の人々の膨大な言葉と証言、そして無数の写真が使われている中で、このガロ発言が妙に印象的なのは、自分にとっても身近な雑誌だったからだ。そうそう、観る前に翔べ、ということばも。“あの時代”への貴重な追悼録である。
アクション演出に“ツンのめり”状態の大友監督。いや、アクションはこのシリーズの最大のウリである。エキストラをふんだんに使った、なだれ込むような勢いのあるアクション。枝と間でぶつかり合う1対1の勝負もしっかり緊張感を誘う。けれども肝心のストーリーが各アクションに押し流されているようで、観ているこちらはチリヂリ、バラバラに浮いている多様な人物やエピソードをせっせとかき集め……。思えばシリーズ第1作目は、アクションとドラマがシンプルに一体化していたっけ。
このアニメの広告チラシに、「単純に面白いと言えるのは、良いことなんです」という宮崎駿のことばが載っている。実際、ハナシの表面だけ観れば、アーヤの人心操縦術の巧みさは、魔法の力がなくても大丈夫に違いない。3D映像も、キャラクターたちのツルンとした表情以外は、背景、小道具など、実写に勝るとも劣らない重量感がある。けれども大人の事情で孤児院に捨てられたアーヤの、その大人側の関係が気になって――。魔女とか魔法で子供受けを狙っているような妙な作品だ。
まったく偶然に違いないのだが、この3月公開の「コントラ」と同じ血が流れている人物の登場にびっくりしつつ嬉しくなった。平和記念館の建設に断固反対する祖母と孫娘が、「コントラ」の祖父と孫娘の関係に似ているのだ。戦争というキーワードや、土着性というか、その地域性も共通する。けれども残念なことに本作、狂言回し役を兼ねている市長(吹越満)が、あまりに薄っぺらなこと。むろんそれが狙いなのだろうが、他のキャラにしても盛りすぎ。でもでもダンコ支持!!
「10歳くらい年上の『団塊の世代』の大きな影を踏むように成長した」と語る代島監督。同じ1958年生まれで、昨年急逝した評論家の坪内祐三は、大文字の歴史のなかに埋もれがちな「ざわめき」を書き残すことにひたすら執着したが、代島もまた、歴史の転換点に命を落とした一人の少年、彼と交わったひとびとのことばから時代の「ざわめき」をすくい上げようとしている。ところでいま、同時代という歴史のざわめきをわたしたちの社会はどれだけ感知できているだろうか。
シリーズ完走したが、結局最後までノレず。伊藤大輔のサイレント時代劇に想を得た谷垣健治監修のアクションは、群舞としてはそれなりに見せるが、そもそも力の強い奴が刀をひと振りすると30人くらいが一斉に倒れるような世界観においては細部のロジックなど望むべくもなく、ただの肉弾戦の繰り返しに早々飽きてしまう。また、大友啓史監督のリアリティ志向は「影裏」のような作品では効果を発揮するが、ここでは背景と作風の乖離を生んでいる。「暗い過去」の描写も類型的
「葛藤と成長」がお題目のように唱えられる昨今、この物語の主人公アーヤの葛藤も成長もしない、他者をあやつることで自身の居場所を手に入れようとする姿は、そのまま「不正操作」に満ちた世界への抵抗を意味する。ギリアムの「バンデットQ」を例に出すまでもなく、本来、すぐれたファンタジーとはそのようなものではなかったか。さらにそれを誰よりも運命の不正操作に自覚的であろう宮崎吾朗が撮ったのが興味深い。気楽に観られる小品だが、たしかなアクチュアリティをそなえた一作。
シノプシスのレベルでは興味を引くが、作り手の視線が表面的な対立図式の外側に向いていないように感じる。批評もユーモアも安直な平和運動批判(というより茶化し)のレベルでとどまってしまい、これで「現代の若者から見る戦争・政治」と謳われても困ってしまう。出演者の8割が素人や新人とのことだが、中心となる二人の人物は吹越満と大方斐紗子(さすがの存在感)というキャリアのある俳優が演じており、それもかえって人物ごとの濃淡のアンバランスを引き起こしている。
山﨑博昭の死。評者は、半世紀以上、その衝撃へと何度も呼び返されてきた。佐々木幹郎の「死者の鞭」は大事な詩だ。代島監督の動機も納得したい。証言者の現在、知ってよかった部分もある。しかし、二〇〇分を使ってこれだけかと思った。まず、山﨑博昭を、家族、高校時代の交友グループ、中核派周辺の人間関係のなかに囲い込む感じで、その死が放った波紋の全域へと視野を広げていない。その後の出来事についても、同時進行する状況の動きの一端であることへの押さえが足りない。
西南の役「戦後」の東京の各所を上海マフィアが襲撃する。首謀者、実は日本人の武器商人で、個人的な復讐が動機。この荒唐無稽が現在のどこに通じるか。少しは考えてくれと言いたくなった。線の細い佐藤健演じる剣心のヒーロー性はここでも鮮度ありだが、明かされる過去は理不尽に悲しいだけ。大友監督のセンス、橋本創の美術のエグ味に、アクション監督は香港仕込みの谷垣健治。総じて、過剰さが、武井咲演じる師範代と門下の励む、人の心を活かすという剣法そのものを活かさない。
あっという間に終わった。退屈もしなかったことになるが、話の筋として、そうなることになっているからそうなると感じさせることばかりで、ハラハラしない。アーヤが「子どもの家」に受け入れられる。そこを出てベラ・ヤーガとマンドレイクの家に引きとられる。どちらも、おこりうる抵抗が封じられている。自分の思い通りにできるアーヤ。魔法もいらない気がする。吾朗監督、日本のアニメのここまでの達成から抜きたいものがあるのか。CGによる画、いつのまにか鮮度を失っていた。
戦争が現在にどう露出するか。麻生や安倍のような政治家が逃げ込む無反省と甘やかしに比べたら、本作の吹越満演じる市長のアガキなど、かわいいものだとなりそうだが、「平和の名のもとにいい加減なことをするな」と抗議したい山ほどあることの一例の首謀者だ。その半端さを吹越がうまく出して、ユニークな存在感をもつ南野家の女性陣の攻撃の的になる。どの人物もふくらみ不足の造型。それがかえって勢いと異化効果を生みだしているか。へんな映画。河合監督、発想に個性がある。