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豊田利晃の「ポルノスター」以来、尖った印象が強い渋川清彦だが、ここではまず、神社にお参りしたり、台所で料理を作ったり、光石研の兄と向かい合って食卓に座る姿が、画面に柔らかく収まって、地方の町をベースにした物語の風土にふさわしい空気を醸し出す。そこから、彼が売れない映画監督で、妻に別居を迫られ、実家に戻ってガンの手術後の兄の面倒をみているということがわかるあたりから、ジワジワと面白くなる。ジワジワと八方塞がりになっていく主人公と歩調を合わせて。
「ラスト15分 この結末は予想できない」と、宣伝チラシにあるのだが、実際、これは、確かに予想できない。それまでの、周りの嫉妬混じりの蔑視やイジメを徹底して無視して、ひたすらオブジェの制作に打ち込む少女を、緩やかに動くキャメラを通して写し出していた画面が、突如、激しいアクション・シーンに換わるのだから。そのアクションが、肉体を使って演じられるのはいい。だが、それが戦争の始まりとなったとたん、自閉少女が嬉々として兵士になるというのは、どうなのか?
3・11のあと、仮設住宅に住む中学生の顔と、七〇年前に、ソ満国境の農場に送り込まれ、参戦したソ連軍に追われ、満州の原野を徒歩で逃げていく中学生の顔が見事に対照的である。そこには、二〇〇九年にプロデューサーから原作の映画化を提示されながら、いまの観客にどう伝えるかに苦慮し、基本プロットを思いつくのに三年かかったという監督の思いが反映されているのだろう。真っ当であることが難しい時代に、真っ当すぎるくらい真っ当に歴史に向き合う構えが、ここにある。
冒頭、畠山の手に握られたペン先が、津波で流された陸前高田にあった実家を描いていくが、そのペンの動きに惹かれる。いうまでもなく畠山は写真家で、本作も、陸前高田に通って写真を撮り続ける彼を追い、畠山が写真を巡って積み重ねた思考を辿るシーンが中心なのだが、かつてあった家を描く彼の手の動きは、あの被害に遭ったすべての人が心中に描く図につながるように思う。それは、作品としての写真とそうでない写真との一線では分けられないあわいにも通じるのではないか。
ここ一年半の結婚生活で赤ん坊が寝たのを見計らって妻と一緒に観た数本のケーブルテレビ録画映画でいちばん二人して唸ったのは「クレイマー、クレイマー」であり私は過去にも観てたがこれは見え方が違った。ただ到底79年のニューヨーカーのように高回転には生きられないという違和もある。そういう意味で本作の主人公と年齢も同じ、収入の無さも同じな私は本作には親和して唸った。独りで観て。渋川光石を他人と思えず、河井青葉渡辺真起子後藤ユウミに怒られたい人は観るべし。
余談。キネ旬7月下旬号、これから公開される邦画アクションものに出演した女優のグラビア「アクション女子、躍動!」を観た、そういう作品群を愛好する私の友人が、こういう記事ならば必ず女優さんの身長は書いてくれ、と血の出るような叫びを。以後ご一考ください。そこで誰よりも鋭い眼光を見せていた、清野菜名。本作は近年公開された二本のトム・クルーズSF「オブリビオン」と「オール・ユー・ニード・イズ・キル」を連想させるが、清野菜名の分、それらに勝っていた。
昭和二十年に満州ソ連国境近くに残された学徒と、平成二十三年からの震災被災者が共に国による棄民だと語る映画。昔の独立プロ作品を観るような、訴えたい認識が映画を撮らせていることの迫力あり。そして意外と戦争描写にキレあり。機銃掃射が撥ね飛ばした石がビシリと眼鏡レンズを割る、小便を漏らす少年たち……。「永遠の0」は邦画戦争描写CGの上限を拡大したが、下限に位置する本作の飛行機一機のビジュアルこそ表現の可能性だ。新「日本のいちばん長い日」よりおすすめ。
本作は震災のつらさを超えて、それを見る、記録する、見せる行為が何であるのかまでもを問う。本作の主人公、写真家畠山直哉のこれまでの仕事は風景を撮ることから都市や文明の成り立ちを見せるものだったが、そのことの陰画あるいは逆再生の如く自然の力で廃墟となった故郷を前に彼は悩み、そして撮る。監督畠山容平の前作はテレビ草創期の名プロデューサー牛山純一についてであり、そこにも骨太なメディア論があって本作につながる。観ることが考えることともなる優れた記録映画。
田舎町を舞台に綴られる、売れない映画監督のさえない日常。夏、酒、あがくほどに摑みきれぬ女心……どこかホン・サンスの、例えば「ハハハ」にも通じる、ユーモアと痛み溢れるダメ男哀歌だ。とはいえ、渋川清彦の情けない笑い顔が物語るように、ダメであることに胡坐をかかない含羞といじらしさが全篇に漂い、憎めない。へらへらと他力本願でいるようで、時折男の面子がちらりほらり。大崎監督の実体験に基づいているだけに妙にリアルで、同じく大人になりきれぬ者としてはつい共感。
「アニメの専売特許を実写でも可能だと信じて制作した」と語る押井監督。なるほど、ヒロイン像も世界観も全体的な無国籍感も、2次元と3次元のあいだをたゆたう独自の手触り。闘う美少女がふんわりと凛々しく、はかなげに屈強なあたりもアニメ的。クライマックスまではひたすら、主に美術室で苦悩する少女の姿が美しい映像とモーツァルトの調べと共に紡ぎ出される。ここでどこまで監督と同じ目線で清野菜名を愛で、眺め続けられるかが最大の肝に。廊下でのアクションは気持ちよかった。
終戦の年、ソ満国境に置き去りにされた中学生たちの逃避行の記録を、現代の福島に生きる子どもたちの目線を絡めて描き出す。戦争がもたらした悲痛な事実を今、映画として残したい、という制作陣のまっすぐな思いはひしひしと伝わってきた。が、現代の中学生は、こんなに素直で真面目でおとなしい生徒たちばかりだろうか。ただセリフで説明するのではなく、両時代の15歳一人一人の個性をより際立たせ、映画として観客の関心を惹きつける工夫がもっとほしかった。重いテーマだからこそ。
陸前高田市で生まれ育った世界的な写真家・畠山直哉氏。母を津波で亡くし、実家も失った彼は、自らはすでに故郷を離れていたことから、被災者としての〝当事者性〟に苦悩し、震災後の故郷を美しく写真に収めたら不謹慎なのかと、自問を繰り返す。何故撮るのか、何を撮るのか。たびたび故郷を訪れ、禅問答のように彼は己に問いかける。あまりにも大きな出来事を前に、どうしても立ち止まらざるを得ない人間の誠実な葛藤、自身から断じて目を逸らすまいとする心の強さに、静かに震えた。