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この1月にNHKで放送された湯浅政明監督のアニメ版シリーズは、あまりにケタタマシくて2回観て脱落したが、この実写版はたっぷり楽しんだ。映像研の女子3人が口にするイメージやスケッチが、そのまま、アニメや具体的な映像で再現されていくその小気味良さ。ロボット研究部の面々とのやりとりなど、英勉監督の快作「前田建設ファンタジー営業部」を思い出したり。そして部員1人という音響部の存在。“映画の映画”として楽しめるのもゴキゲンで、大声、早口の女子3人に拍手!!
公園のような建物。周辺の環境との美しい調和――。新校舎の微妙に異なる模型を前にした建築家・妹島和世はその設計意図を語る。けれどもこのドキュメンタリーの意図が分からない。妹島の仕事ぶりを撮りたかったのか。新校舎の基本工事から完成までを定点カメラで撮りたかったのか。あるいは大阪芸大アートサイエンス学科のPR? いずれにしろ中途半端な産業映画という印象で、しかも完成した校舎の中はほとんど撮っていない。あ、妹島和世のファッション・センスには感心。
素朴、純朴、かなりまっとうで等身大の成長物語ではあるけれども、お笑い芸人を目指す主人公のお笑いが、まったく笑えないのはどうなの? ふだんは父のりんご園を手伝い、週末になると東京のお笑いライブのステージに立つ主人公。メイン舞台は長野の松川町で、主産業はりんご。主人公がお笑いにこだわる理由がいささかお涙チョーダイなのはともかく、リンゴ園かお笑いかの二者択一ドラマとしての悩み方もゆるく……あ、これ二者択一ドラマではないか。にしてももっと笑いを!!
開発された特殊な機械によって可視化された意識不明の研究者の“心”が、まんま、その人自身の姿カタチをしているというのが、いささかイージー。これだと心は身体と全く同じということになる。或いは、本質は現出する、といったドイツの哲学者ヘーゲル理論の実践? シンプルでひっそりとした設定の中で、科学と想念というテーマを同時に描こうとする五十嵐監督の野心は素晴らしいと思うが、観ているこちら側にいまいち伝わるものがないのが残念。音の使い方は効果的。
大林宣彦は自らの映画の世界に俳優の身体を押し込めることを「映画という制度」と表現したが、この映画には制度すらなく、アニメキャラを半端に模倣しただけの身体が自堕落に投げ出されているだけである。そのなかでは「初恋」でみごとな身体性を発揮した小西桜子までもが単に「役割」をこなすことしか許されない。画面のどこかに絶えず変顔をしたキャラがいるようなチャカチャカ演出のあとにいきなり泣いてくださいとばかりの感傷演出。あまりの次元の低さに呆れかえった。
他の建築ドキュメンタリーとは一味違い、この映画は建築の工程や建物の造形美ではなく、「建築家がいる時間」をこそ注視する。青々と茂っていた木の葉が紅く染まり枯れていく季節の循環。妹島和世のインタビューも、語られている内容以上に、語っている時間そのものに意味がある(インタビュー中に物音がして「なるべく静かにしててね」と妹島が叫ぶ場面をあえてカットせずに残していたりするのもそのためだろう)。時間を接合すべく全篇に流れる石若駿のジャズドラムも心地よい。
夢を追う息子とそれに反対する父親の諍いを軸に、全面協力を買って出てくれた松川町のローカル性を賛美しつつ、どれほどいがみ合っても家族の絆は強固なものだというこれが2020年の映画かという結末に落とし込むまでの87分。凡庸でもしかるべき抑制があれば醜悪には陥るまいが、大人も子どももギャーギャー喚くばかりでうんざり。後で知ったが、発端は存在しない映画の予告編大賞のためにつくられた予告篇らしい。結局、それ以上にアイデアが膨らまなかったということか。
ハマー・プロの作品に出てきそうな妙に古めかしい機械、蔦が絡まる外壁にコンクリート打ちっぱなしの空間、キャストの低体温な演技。随所に黒沢っぽさ、高橋洋っぽさがただよう。ダメ押しとしてゴダールのポスターまで映り込んでいるときては、これはもう正しく「映画美学校の映画」であって、部外者としてはそれ以上になにも言うことがない作品と感じてしまう。その外見の奥に仄見える情動や人間観がもっと無邪気にはじけたときにこの作り手は傑作をものすと思う。期待して待つ。
またしても荒唐無稽の学園物で、老け顔の高校生が並ぶ。こういうのでしか、もっともらしくものを言ったり個性を発揮したりするキャラクターの集団を作りだせないという、根の深い「症候」はそれとして、原作、テレビアニメ、本作へとつながれた創意からのノリを英監督は活かしている。性的なものを抑えた真ん中の三人の演技は、言われたことを上手にやっているだけという歯痒さだが、みんなの力を結集して達するゴールのアニメ映像の凡庸さも含めて、そんなに責められない気がした。
大阪芸術大学の新校舎を「公園のような建物」にしたい建築家妹島和世。その姿と言葉と仕事場。実際に校舎が作られていく過程。三年半の時間が流れるが、題名に入れた「時間」は何を指すのか。評者が鈍いのか、監督の写真家ホンマタカシが妹島和世にどう挑み、何をつかもうとしているのかも伝わってこない。表現者対表現者という緊張の瞬間がついに訪れないのだ。そんな企画じゃないとしても、遠めの映像の反復は現場での困難さやよろこびも取り逃している。音楽の使い方もよくない。
リンゴ農家とお笑い芸人。実際に両方をやっているモデルから考えた話だが、農業もお笑いもこの世での大切さ、すごくあるのだというところに踏み込んでいるかどうか。そのためには必要な、社会にはびこる悪意や劣等感への批評が足りない。前半で難破していそうな筋を八木監督はなんとか動かす。竹内一希と田中要次の、息子と父をはじめ、演技にふくらみはないが、ハマってはいるというキャスティング。ダメな永真の役に仕掛けてあったものが救い。そこに爆発的なネタが欲しかった。
人間の心を可視化する。どうするのか。思っていることを隠さないもうひとりの自分の像を出現させる。このコンセプトにも、それを実現する機械にも、なるほどと納得させる力はない。科学、科学者、その愚かさを暴くというモティーフもとくにないようだ。もたつきながらも話は進む。待っているのは、「可視化」がどうこうというよりも、自他の願望が入りくむ関係性の迷路。五十嵐監督、タルコフスキーを意識しているだろうか。心理を異次元に展開する実験の第一歩は踏みだしたと言える。