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よくある設定。よく聞く台詞。お馴染みの挫折。おなじみの未練。過去にケジメをつけるためのレコーディングもいつか見たシーン。そういう意味では、これからも繰り返されるに違いない普遍的な青春映画ではある。けれども、このシーンの後はこうなるだろうなと思っていると、台詞までほとんどこちらの予想通りで、うーん、困った。1990年生まれという佐近監督の身近な題材なのだろうが、燃焼しきれないまま現実と妥協するとは、30歳、早すぎる。ムダに長回しが多いのも気になる。
「やたらに“昭和”を持ち出すつもりはないのだが、ジャズという音楽を含め、場所、空間、機材、そしてマスターや常連のミュージシャンたちの顔、表情、ことばを含め、丸ごと昭和が息づいていて、ちょっと感傷的になってしまう。コーヒーにタバコの煙、壁一面のレコードジャケット……。ジャズを聴くことが、当時の若者たちの通過儀礼でもあったのだ。クラシックを流す名曲喫茶なども同じだろう。カッコいい音にこだわるマスターの信念もカッコ良い。ただ回想的?すぎる気も。
薄暗い洞窟の中、生き物のようにうごめく水の重量感に圧倒される。小田監督は、長篇デビュー作の「鉱ARAGANE」でも黒光りのするズシンとした映像で、ボスニアの炭鉱とそこで働く人々を美しくも厳粛なタッチで記録していたが、今回はマヤ文明の伝説の洞窟湖に集中的にカメラを向け、そこから過去に遡る。延々と続く微かな光の中での水面と水中の映像は、ある種の催眠効果をもたらし、ちょっとウトッとしそうになったが、と突然、奇跡が! リアルなアートフィルムの秀作だ。
お笑い芸人シソンヌじろうの元ネタも、その元ネタのヒロイン名で書かれたという原作も全く知らないので、アラフォー、独身OLの日常、ふつうに情報ゼロで観た。それなりの給料を貰い、誰にも拘束されない自由気ままな都会暮し。毎日、日記を書いていて、別にどうということもないその日記の内容が再現されたりも。エピソードふうに、バーで隣り合わせた男とホテルへなんて場面もあるが、年下男に慕われての発展的関係といい、フワフワ生きても自立は自立? どうぞご勝手に。
白波多カミンと松本妃代、この二人の表情(以前に顔立ちだろうか)がもつ豊かな「含み」が、語られていること以上の背景を観る者に読ませてしまう。それにくらべると、男性陣は一様に茫洋としていていまひとつ面白みに欠ける。それぞれの生活を歩み始めたバンドメンバーが、いかなる感情の変化を経て再集結を果たすかが物語の肝だろうが、そもそもなぜ彼らが音楽に執着するのか、その依って来るところがわからない。生活と音楽、もっと根源的な部分でつながっているはず。
ジャズのまち・横浜に暮らしながら、ジャズ文化圏の醸し出すムードにどこか距離感があり、貧弱なオーディオシステムにデジタル音源を流し込んで聴いているような人間にとっては敷居の高いドキュメンタリーであることはたしか。しかし菅原正二はじめ、いわゆる数寄者たちのことばに宿る歴史、「音の輪郭」ならぬ「人生の輪郭」に触れる瞬間はやはり感動的なものがある。全体の編集構成と画面処理、TV的な据わりのよさに傾きすぎで、映画としての拡がりがもうひとつほしい。
『夢の島少女』などの作品で知られるTV演出家の佐々木昭一郎にインタビューした際、「私の作品はよく〈映像詩〉と評されるが、自分では〈ジャーナリズム〉だと思っている」と語っていたのが印象的だった。小田香の作品も然り。8ミリフィルムで撮られた人間のいとなみと、iPhoneで撮られた人智を超えた水中の世界。その上にマヤ演劇のモノローグがかぶさる趣向。自然の恐ろしさと人間の歴史がはらむ残忍さにフォーカスした、紛うことなき〈ジャーナリズムとしての映像詩〉である。
宣伝につかわれているモノローグ、「白黒がちだった日常に色がつく」。どうにも類型的な表現だ。「東京バタフライ」もそうなのだが、「変わる」ということについて、いま一歩ステレオタイプな思い込みの域を出ていない気がする。さりげないところはもっとさりげなく、劇的なところはもっと劇的に変わるのではないか。松雪泰子も黒木華もさすがに巧く、観ているうちに愛すべき人物に思えてはくるが、なにかそのように「設定」されている感触が最後まで拭えなかった。
勝負は、現実にシンガーソングライターである白波多カミンの魅力をどう見せるかだったろう。細身、控えめ、幼そうな感じと芯のつよさの同居など、言ってしまえばフェアリーテール的なものを呼び込んでいるのに、話の展開は現実の大変さに対して飛ぶところがない。でも負けっぱなしでは終われないね、というもの。佐近監督、手堅すぎる。最後の歌がもうひとつ迫ってこない。音楽、なぜやるのか。「根拠なき使命感」という言葉が放たれる。それを映画の表現として叩きだしてほしかった。
ジャズ喫茶ベイシーとマスターの菅原正二さん。日本におけるジャズの受容、とくに独特に発展したジャズ喫茶文化を「蒸留」したような凝り方と年季が生みだした場所と人。カッコいい。これが初監督という星野監督の仕事ぶりにも驚く。何よりも、音。やってくれた。画と編集もスマートでかつ格調あり。登場する人物では、阿部薫と小澤征爾が出て振幅が広がった。菅原さんはベイシーからスピーカーの職人にまで「ひれ伏して」いるそうだ。文化って、局面での真剣勝負の連続だと思った。
撮れている、と思った。洞窟の泉。そこにどういう未知があるのか。幻覚的な体験に誘い込まれるが、カメラの呼吸が現在からの糸を意識させる。一方、それとは異質な、人々をフィックスでとらえた映像。映画史をさかのぼるような、触られていない顔だ。そして言葉。いま生きる人々の聞いたことや体験したことだけでなく、マヤの伝統を守りぬくための劇のセリフが転用される。それが大きく呼び込むものが効いた。小田監督、ひとつの作品を作るとともに映画の力にゼロから出会っている。
佳子さんと若林ちゃん。松雪泰子と黒木華だが、ふと無名の女優二人が一生懸命やっているように見えるときがあって、いいなと思った。演技、少しでも意外性が出ると楽しいのだ。大九監督の側にプロ的な処理を打ち破る意識があれば、というのはねだりすぎか。シソンヌじろうによる佳子の日記モノローグ。鮮度ある詩をはらむが、それを乗せる画に遊び方が不足。そして清水尋也演じる岡本くんとの恋での、佳子のかわいそうになるほどの心理の動き。フェミニズム的に大丈夫なのだろうか。