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これってどうなの? 劇中で起こる奇っ怪な現象よりも、それを目撃体験する主人公たちの恐怖演技の方がずっとリアルで生々しい、とは。特に死霊たちに囲まれた終盤の亀梨和也の絶叫演技!! 死霊たちよりこっちの方が気になって――。むろん、主人公たちの恐怖もホラー映画のポイントの一つではあるが、原作者だという芸人の存在も全く知らずに観た当方としては、原作者の分身である〈事後物件に住みます芸人〉もお騒がせキャラとしか思えず、なるほど派手に騒ぎまくるのも当然か。
「窮鼠は…」と同様、こちらもゲイとか同性愛とかいうことばは使われていない。プライドの高いUターン男子が、故郷で純朴で働き者の青年と出会い、友情以上の濃密な関係を求めるという、ボーイズラブ系の話。けれども話のチョーシが良すぎる。〝BL〟映画だからといって世間的な障害物を置く必要がないのは当然だが、どうも浮世離れのご都合主義。ロケ地と2人の周辺の人々の描き方がそれなりにしっかりしているだけに、逆に2人の関係が絶対的なヒミツで進行するように思えたり。
歌は祈りだ、と誰かが言っていたが、讃美歌やゴスペルソングを持ち出すまでもなく、歌は宗教と深く結びついている。音楽家・青柳拓次が始めたという〝サークル・ヴォイス〟活動も、かなり宗教的な匂いがして、私にはどうも馴染めない。例えばドイツだったか、画廊風のスタジオに集まった親子連れたちに、あなたたちはここに、等の指図をして円陣を組ませ、彼らにギターとスキャットの曲を延々と歌わせるくだり。一つの手法として面白くなくはないが、歌ぐらい勝手に歌いたい。
劇映画を観察する、というのも妙な言い回しだが、ドキュメンタリー作家・想田和弘の、いわゆる〝観察映画〟を観ている気分だった。ナレーションも音楽も一切使わず、ただその土地に暮らす人々を被写体にした作品。いや本作には説明台詞もあるし、控え目ながら音楽も使われているが、2人の男優が演じる手のかかる追っかけっこを、ひたすら見せられているだけ。つまり、2人の役どころは、都会という水槽を泳ぎ回っている観賞魚並ってワケで、女たちは水槽の中のお飾り。
場所に憑く怨霊を題材とした新作ホラーとして、三宅唱「呪怨:呪いの家」を観たあとではいかにもぬるい。主人公がこの部屋に「住む」ことになるいきさつとそのバックボーンにこそ映画用脚色の幅があるように思うのだが、そこは段取りとして流されるだけで、結局、早々に幽霊側の因縁話で物語を進めざるをえなくなる。TV業界の内幕を丁寧に描写するあたりは現場フェチ・中田秀夫の本領が発揮されるところで、こちらの描写に比重を置いたほうがユニークなホラー映画になったのでは。
一度は故郷を捨てた若者が、都会の冷たさに疲れて故郷へ舞い戻り、そこでの出逢いと経験を通じて生きる目標を見いだしていく――手垢のついた物語をいかに新鮮に見せるかが肝となる題材だが、パワハラ上司、頑固な家具職人の父親、いずれとの対立もステレオタイプの域を出ず。ゆえに「だめなままでいたくない」と述懐する主人公の苦悩もいまひとつ切実さに欠け、結局周囲を説得してOKという話にしか見えない。その安直さを同性愛要素で糊塗しようとする意図さえ感じてしまった。
まずことわっておかねばならないのは、評者はこの作品を視聴用のリンクをもらい自宅のパソコンで観たということだ。これだけでこの映画の価値は半減する。そして、音と映像への没入を奪われたぶん、ミニマムな人間の動きに意識が向いた。聴衆が一人もマスクをしていない狭い会場で演奏する青柳拓次。誕生日を迎えた娘を祝うためにハッピーバースデイを歌う人々。ミュンヘンのハウススタジオでリハーサル前に朝食をとるホッホツァイツカペレの面々。それらの風景に自然と涙が出た。
達観と焦燥のはざまで揺れ動く微細な感情の変化を映画の画面のなかでたおやかに見せる成田凌、その役者としての華にあらためて感服。成田の胸を借りるかたちとなった大倉忠義も、一つひとつの所作をだいじにした演技で映画が伝えようとしている空気感の醸成に貢献している。行定監督と俳優陣の相性の勝利。ラスト近くの成田のことば、「あなたは愛してくれる人に弱いけど、結局その愛情を信用しないで、自分に近づいてくる相手の気持ちをつぎつぎ嗅ぎまわってる」。ドキリとした。
話題性で、という企画。しかしその話題性がさもしく、題の「間取り」も肩透かし。テレビとその業界の軽薄な部分がどんなに社会を蝕んでいるか。原作の性格からしてそこに斬り込む批評性など望むべくもないが、中田監督だ。なにかあるのではと思ったが、まず恐怖シーンの作り方がお粗末。中田監督でこの程度なのかと悲しくなった。何を見るべきか。ファン心理もこめて言うと奈緒と江口のりこだ。ともに超能力的なものをもつ役。その能力をもっとポジティヴに活かしてもらいたかった。
提示部で「ダニーボーイ」の音楽が流れ、こんな甘ったれたバカいるだろうかという感じの光臣が故郷に帰り、それを度のすぎるお人好しの大和が迎える。農業をはじめとする故郷にある「仕事」の大変さを本気で描きだせるかどうかも含め、前途に大不安を感じた。いい加減さは解消しないものの、光臣の大和への恋心が見えたところからそれを応援したい気持ちに。古川雄輝と竜星涼。二人の顔がいい。無理しない井上監督、それを活かした。微笑ましい。この日本語が久しぶりに浮かんだ。
青柳拓次の最近の音楽活動を知らなかった。祖父、母、そして彼へと受け継がれてきたものがあることについても本作で初めて知った。どうだろう。「Circle Voice」のプロジェクトはとても興味深いが、その音楽と人、もうひとつヴィヴィッドに迫ってこない気がした。田中監督、まず内輪から入りすぎている。そして編集の呼吸が浅く、ライヴの音の持続を十分に体感させてくれない。この世を去った人とこれから生まれてくる人に語りかける言葉が最初と最後に。ズバリ、現在が足りない。
一三〇分の尺。四〇分でもう息切れかとも感じたが、そこから先をなんとか粘るのが行定監督のプロ根性。大倉忠義演じる恭一は、モテる。如才ない。世間を怖がらない。キャラクター的に「あり」だとしても、惚れたくはない。でも惚れてしまったのが成田凌演じる渉。彼には、甘く言うとウォン・カーウァイやロウ・イエの世界でも通用しそうな魅力がある。二人の恋のじゃまをすることになる女性陣は、結局、フェミニズムの視点からも抗議を受けそうな、おとなしいか便利かという動き方。