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TVドキュメンタリーで被爆ピアノの音色を通じ反戦活動を続ける調律師矢川光則氏に出会い、「平和を考えるきっかけを」と劇映画化に至った五藤監督、「忘れないこと、記憶し続けること、伝えていくこと」との思いに水を差すつもりはないのだが、祖母とその娘である母とのピアノを挟んだ葛藤がもひとつ描き込めないままに、ヒロインの試みだけが浮足立ってしまった脚本の弱さは否めない。そんな“逆境”の中、母役森口瑤子の健闘が光る。広島の晴れた空と〈悲愴〉第二楽章、哀傷の共鳴!
群像劇を究めたアルトマンは、ひとつでは見えない何かが複数の物語を紡ぐことで見えてくると述懐した。古本・齋藤両監督の映画を前にして実は、なぜオムニバスと最初は訝しく感じたけれど、3つの物語を撚り合わせゆっくりと母性という物語を浮上させる様にいつしか抵抗感が遠のいた。いっぽうでJ・クロフォードと娘を描いた映画の記憶もうっすらと想起させる第参話はじっくり単独で描いてみて欲しい気もした。娘役川相真紀子のくぐもった存在感の演じ方、もっと見たいと思った。
「ろんぐ・ぐっどばい」も撮ってるいまおか監督だけに「悲しい時に笑うって手もある」としらりと語ったアルトマンの心を射ぬく新たな快作を放ってくれた。悲しみはよく晴れた日の白い光の底にこそ染みている。震災で子を失くした夫婦のその後。それぞれの歩み。ドラマがある所をこそあっさりと描くこと。その美しい自恃がボディブロウのように効いてくる。時の軽やかな重み。省略の雄弁。ウルトラセブンの破調。いずれも界隈の人の記憶と共に心に降り積もる。くり返し見たいと思わせる。
半径2メートルの小さな世界、だがこの小ささはオッケーと思わせる。ちっぽけな生の恥かしさやいたたまれなさを活写する台詞を芯に、人の心の機微、陰翳をみつめ尽す気概が玉田真也の演出にも脚本にもしぶとく息づいているからだろう。ほんのひとことのすれ違いでかけがえのないひとりを互いに失うことの涙ぐましさを小ささの中で煮つめつつ、そこに脚本家の主人公に託した虚実皮膜にまつわる考察も食い込ませる。周囲の面々の台詞が時にお笑いのルティーンを思わせるのが惜しい。
TVドキュメントの取材を通じて矢川光則と知り合い、この物語を構想したという五藤利弘監督。題材への並々ならぬ思い入れを感じる。被爆ピアノが表象する歴史に関心を抱く主人公と、「娘を広島と関わらせたくない」という母親。その当事者意識がどのように交わっていくかが物語の核となるが、事実に対する誠実さが足枷となったか、対立から和解への流れがやや予定調和的な気も。当初は大杉漣が演じるはずだった矢川役の佐野史郎がナチュラルな存在感で要所を締める。
「僕の好きな女の子」がすべて想定の上に構築されているのに対して、この映画には想定が裏切られることをおそれない、むしろ待望しているかのような自由さがある。そうすると不思議なもので、シチュエーションや対話の成立/不成立がおのずと豊かな映画の時間を刻み始める。三部構成だが、古本恭一監督の一・三部と齋藤新監督の二部が互いに世界の不完全さ、それをめぐって右往左往する人間たちの群像劇として呼応し合う形になっており、ラストには奇妙な安堵感が残る。
ほぼ毎日更新されるいまおかしんじ監督のブログを何年も読みつづけている。近所のファミレスで、喫茶店で、なにを食べたか、なにを飲んだか、考えたかが簡潔に綴られているだけなのだが、だからこそそのことばの後景に無限の世界が広がっていく。海や居酒屋や水族館などひとつひとつの風景がただの風景として、つぶやきや会話や俳句などひとつひとつのことばがただのことばとして流れゆく、その後景に惨禍の記憶がじわじわとにじみ出す。いまおかしんじにしか撮れない映画。
「れいこいるか」と同じ日に観たのでどうしても比較してしまうが、主人公の不器用さ、他者との距離感、空間の切り取り方、すべてが「こう感じてほしい」という思惑の通りにしつらえられていて、風景やことばの後景に観る者の意識が及ぶまえにどんどん物語が進んでしまう。いまドキドキしている、いま寂しい気持ちを抱えている、と手に取るようにわかってしまうことが映画としての豊かさを奪うということをあらためて思い知らされた。主演の二人のたたずまいはわるくない。
被爆ピアノの音とそれへの思いが中心にあるべきだが、その音色がはっきりしない。これだという演奏がない。被爆ピアノを使うコンサートを続ける矢川光則その人に、佐野史郎。こうしたら窮屈、をあえてやった感じ。武藤十夢は、被爆者の祖母と被爆二世の母の葛藤のために遠ざけられた「広島」に引きよせられる役。修理された祖母のピアノを猛練習して弾く。「がんばったね」だが、実は大事なことをおきざりにしていると思った。画が甘い。題名、なぜ「おばあちゃんの」じゃないのか。
三部構成。なんと本作脚本の水津亜子演じる元アイドルの千波が活躍する二部に入り、活気が出た。千波は、突然死んだ夫の不倫相手で妊娠している女性の身がわり役に会って、声が出なくなる。夫の残したものは放棄し、筆談で挑む就活の末に、車で売るピタパン屋に強引に就職するのだが、やることすべてに明快さと意外性がある。一部と三部の古本監督がピタパン屋でもある。二部は齋藤監督だが、「手触り」にチームとしての気合いを感じた。三部の、自身に近い役の吉村実子、偉い。
本作は、いまおか監督がずっとやりたいと思ってきたものだが、脚本家佐藤稔の個性と趣味がまさって出ている気もする。それで困らないのも、いまおか的カッコよさだ。神戸の震災以後とそれを飲み込む世の変化への、根本で譲ってない「受け」の姿勢。武田暁の演じるヒロイン伊智子がそれを体現する。普通のおばさんになりながら苦も楽も知る「一代女」の貫祿。河原秀俊の太助も泣き笑いのなかに低い位置から筋を通す。老若男女、飲む場所、街。去るものを追わない神戸、いとしい。
又吉直樹のエッセイが原作。あえてそう呼ぶが、こういう男子と女子。いたし、いるだろうが、こんなふうに作品化されると、二人に文句をつける以上に、作り手にこの二人のいる世界をどうしたいんだと問いたくなる。渡辺大知と奈緒。うまい。とくに奈緒は怖いくらい。作品的には「見る力」をもった仲野太賀が登場して着地点が用意された。玉田監督、長いショットで人物を活かし、公園の撮り方などにもなにかある。でも、脚本協力の今泉力哉の「愛がなんだ」と同様に、二度は見たくない。