パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
SF超大作の対極を究めた労作として興味深かった。好きか、と訊かれたら即答は控えたい類の演技、その小劇団臭、パズル的構造の面白さをちょっと押し売りするような感触等々、好みの問題といってしまえばそれまでですが――な抵抗感を次第に忘れさせる吸引力、チームワークの勝利だろう。種明かし的に引かれる藤子不二雄の作、恥ずかしながら未読だが歴史の礎の上にある未来という真っ当な目に大混乱のはての着地点を置く姿勢は健やかで、拍子抜けしつついやではないと思った。
西条みつとしが書いた「blank13」にあった父と息子の挿話、ハイライトとライターの授受といった忘れ難い細部は原作者はしもとこうじの実人生から掬われたものだそうだが、今回の西条監督・脚本作でも他人事でないモチーフとして活用されている。そこに見て取れる物語する力と意志がバラバラに見えた枝葉を鮮やかに一つに束ねこむ。病室での死神と看護師をめぐる騒動、間合いで醸すその笑いはルビッチは言い過ぎでも「メル・ブルックスの大脱走」級にはおかしい。欲しいのは深み…。
度を越して長い引用をご容赦いただけるなら「もちろんホームに戻ったからと言って何かが元通りになるわけではないし新しい人生が始まるわけではない。ただ単に葬り去られたものとしての彼ら自身による不在の営みがそこから始まるだけである。しかし死んだものはもう死なないのだとジム・ジャームッシュが言うようにわれわれは単にそれを繰り返せばいいのだ」(boidマガジン妄想映画日記)と「心の指紋」について書かれた樋口泰人さんの美しい言葉をそのままこの映画に重ねたい。
中島、橋本、さらには藤原さえもがしっくりともう若くはない女の、だからこその奥行をそっと覗かせ光っている。前作「影踏み」の中村、尾野もそうだった。「山桜」の田中のきりりと固い蕾の若さの向こうにも艶やかに年増の色を予感させた監督篠原の強味を改めて確認する。その監督が今どき稀な職人芸の慎みの奥で追ってきた挫折者同士の再生の物語が脚本の協力も得てじわりと浮上する。手と手がふれて淡い想いが立ちのぼる一瞬。別れの前の疾走。紋切型を蹴散らす素敵が見えた。
奇しくもこの自粛ムードのさなか、カフェという密室空間を舞台にした〈ステイホームSF〉とでも呼びたいタイムリーな一作。ただ、ドロステ効果というワンアイデアの転がし方と捌き方、そこそこよくできた舞台劇の枠をいささかもはみ出さず、これを映画にする必要性はいったいどこに、という疑問がわき上がってきてしまったのもたしか。いくらなんでも中身までステイホーム(内部完結)では、この短さでもさすがにつらい。俳優たちのいかにも小劇場的な戯画化芝居も鼻につく。
ショートコント的な設定を引き延ばし、これみよがしの伏線を律儀に回収していくだけの100分。集団ヒーローもの、仮面ライダー、アメコミヒーローと型のバリエーションをなぞってはいるが、本気で思い入れがないのか、いずれもディテイルへのこだわりは感じられず、その差異や背景への無配慮がもっとも切実であるべき登場人物の動機づけにさえ及んでいる。これならべつにヒーローを素材にする必要もなかろう。他作品では好演を見せている役者も型におされて個性を発揮できず。
今泉力哉の諸作品にも通じる「搾取恋愛」の顚末を描いた、きわどい関係性映画。ただし、今泉作品の根底にカサヴェテス的な重さが宿っているのに対し、下社敦郎にはジャームッシュ的なスノッブとセックスに対するあっけらかんとした諦観があり、それが奇妙な口当たりのわるさ(欠点ではない)につながっている。いかにも撮影のために用意しました、といった感じの漫然とした空間の切り取り方はマイナス。川上奈々美の表情が終始素晴らしく、なるほどこのラストしかないと思わせる。
今回評した他の作品がとくにその面で難ありだったこともあるが、篠原哲雄らしい俳優の動かし方の巧さ、タイプキャストにそれ以上の含みをもたせようとする演出のたくらみにだいぶ救われた。藤原紀香演じるカリスマセラピストの言い知れぬ胡散臭さなど捻れた面白みがある。ただ、それがなければ到底観ていられないくらい紋切り型、予定調和が連発されるシナリオ、もう少しなんとかならなかったのか。安直にラブストーリーのカタルシスに落とし込まない心意気は買いたいのだが……。
原案・脚本は上田誠。山口監督が撮影と編集も。だれの作品というよりも、みんなで作ったというものにしたいのだろうが、最初から最後まで、なにかが創造的に衝突しているという気配がない。ある種の達者さで進行は流暢だ。でも、ドロステ効果の見せ方なども含めて「もっと映画的に」「いい画を」という初心的願望が感じられない。作品が救おうとするのは騒ぎのなかで接近した二人の感情。こんなことがないと成り立たない恋。作品を終わらせる都合以外に、そんなに大事だろうか。
まず、筋立てへの疑問。小細工と芝居による超常現象を人が簡単に信じるだろうか。演劇をやってきた西条監督、「もっと演劇にきびしく」という姿勢があるべきでは。組み込まれた演劇的なものが、薄っぺらな効果に甘んじていて、寒々しい。嘘だろうという話に、実写感のない画。これでは、映画が現在の現実に過去も本当の超現実もつなぎうることへの興奮が行き場を失う。考えてみるとみんないい人たち。なかでも手品師、マンガ的にいいやつだが、出すべき芸が用意されていない。
いいと思った。下社監督、甘いかな、となるところでも心を感じさせる。映画、どういう夢か。なぜこだわるのか。真剣に考えたことのある者の心だ。映画を学び、音楽もやってきた。最後のラジオの伊藤清美の声まで、音の入り方に楽しさがある。男性陣の演技はなんとなく抑えが足りないが、森岡龍には、映画から逃げても現実に対してスキありの男のリアルさが、いちおうある。魅力的なのは、過去と現在の変化に応じた輝きと抗議を全身的に表現する川上奈々美。彼女に感謝したい。
宣伝映画だ。ドキュメンタリーで本物のセラピストの「施術」を見せたらいいと思うが、これは半端に金をかけた劇映画。篠原監督や撮影の長田勇市の考えてきた「映画」がどう作動するかという興味で見た。「癒し」や「リラクゼーション」が、言葉としては無力でも実はこういうことだとハッとさせるような発見があるかどうか。ない。ここでの映画人のプロ性は、わかりやすく、浅く、という方向に働くだけ。「では右肩からほぐしていきますね」とか健気に言う松井愛莉に同情した。